自分の足でまともに立てないから、理由ばかりを探し求めてる

 おれは世間様でも珍しい、ゴールデンウイークを一丁前に享受できた人間なのだけれど、去年の今頃は一度辞めた絵をもう一度始めようと意気込んでいた頃で、拙いながらも、方法も覚束ないなりにも、それなりの枚数をこなしていたようにおもう。間違った線、間違った塗り、間違った絵だったと振り返って思ってしまうが、それでも今年の何一つ成果どころか筆の一つも生まなかった時間よりかはある程度マシだ。

 ただ、おれはきっと本心で、「筆を動かしたほうがマシだった」とはもう考えていない。おれは自分の頭ではじき出す戦略とか、自分の手を動かして生み出す成果物の堆積とか、そういうものをなんとなく信じられなくなってしまっている。それがなぜなのか、もう何週間も探している気がするが、そんなものを正確に言い表すための作業に時間を費やすのを、一秒でも早く辞めるべきだとおもう。それはきっと、「自分が願う未来が実現しないことが怖い」とか、「自分が願う未来そのものが信用できない、自分の願うものが自分にとっても誰にとっても望まない間違いであるかもしれない」とか、とにかく、「分からないから怖い」に帰結するような、浅薄で、臆病で、与えられた時間を無駄にするものばかりではないかと直感できるからだ。しかし一方で、自分の中で恐怖におびえる気持ちが、かつてないほどに大きくなっているのを感じて、「動かないままでは時間を失い続けるだけだ」と自分の背中を押す声と同等かあるいはそれ以上の大きさで、「おまえがどう足掻いたところで災厄を振りまくゴミを生み続けるだけだ」という声が鎮座している。もうダメかもしれない、おれはもう筆を取れないかもしれない、とすら、何度も考えている。いや、この連休は、そういうことを考えないようにしてきた。

 考えないようにして、明日のことも、未来のことも、かつて願ったことも、約束も、今解決すべき課題も、全部投げだして、ゲームとか、漫画とか、映画に耽った。素人なりに色々考えたが、しかしそのすべてを、以前のように記事にしようとはあまり考えなくなっていた。どうせおれの濁った眼と頭では、誰にも到底受け入れられない間違いを生み続けるだけだと、そこまで強い言い方ではないにせよ、しかしやはりそれに近い声が頭の中にずっといる。おれは、観ている作品のなかを深く潜って、自分の言いたいことを探し当てて、それをなるべく伝わるようかたちにするといったおれの中での「創作」の作業に辟易してしまったのかもしれない。その結果、おれは作品をただ貪るだけで何も創出できない、思考も自分の考えもない、ただの非能動的な受容者になってしまったのかもしれない。それが、一年前、二年前のおれがもっとも恐れていたことだった。そのときのおれにとっては、そんな未来はきっと、急激ではなく、おれでさえ強い抵抗のないままに訪れてしまうものだと予期していた。そして今、まったくその通りになって、おれは強い反発をするでなく、ただ泥濘に甘く足を取られていることを受け入れている。おれはそんな自分を、強く罰することができなくなってしまった。だって、同じことを誰かがしているように見えたとして、その人を強く非難することなどできやしなくて、自分に厳しく他人に甘く、という自他の分別をきっちりつけることが、まったくできなくなってしまっているのだから。

 おれは弱いと思っていた以前のおれよりも、ずっと弱くなってしまったのかもしれない。そしてそれは、衰弱や老衰のようにそのときを迎える。そこには強い抗いもない、何か抜け出す方法を探すような希求もない。ただ、自然の道理であるように、能動性の消失を受け入れるおれがいる。以前のおれなら許せなかったはずのそれを受け入れている自分、そしてそれを観測している今のおれがいて、心境は複雑そのものだった。

 

 おれはたぶん、一番大切なものを一番にしてはいけない人間なのだとおもう。なぜならそれは、おれがおれのことを嫌いだからだ。信用できないからだ。許していないからだ。

 

 この連休はろくに筆も取らず、ゲームをしたり映画やアニメや漫画を見ていたのだけれど、今ちょうどアニメで放送している『不滅のあなたへ』を見ていて、漫画は最新刊まで追っていたから再度読み直して、やはりこの人は最早当たり前のものを再度新鮮なものとして提示するのがあまりに上手い作家だと思いながら、ふと同じ作者の原作である『聲の形』を観てみたいと、自分の事ながら歯止めもきかずそのままの流れで観ることになった。これが今日半日の出来事だ。おれは思い立ったら読むのも見るのも早い。そこだけは誇れる。何の役に立つかは知らない。

 で、その『聲の形』の話を、なるべくネタバレをしないよう配慮しながら書くとするならば、まず一言、この話はおれに向けられた罪状のような気持ちだった。多くの人が苦しいと言う序盤よりも、主人公が成長した中盤からのほうが、おれは見ていられなかった。見ていられないと思いながら、手が止まり、目が惹きつけられてしまった。色々言いたいことがあるが、この作品は、無邪気さという一言で片づけられない罪と、それを自覚し希死念慮に陥る者と、実はその狂いは周囲に波及していて、誰もが誰も救われない気持ちの中で暗い森をぐるぐると彷徨っているかのような、そういう物語だった。

 これは途中まで、現実のおれと酷似していた。なぜならおれは過去、子供の遊びと区別のつかない状態で、二人の人間に対するいじめに加担している過去があるからだ。もっと平易に言うならば、おれはいじめの加害者だ。この作品の主人公のように。

 二人のうち片方のいじめは、クラスで一番発言力のあったガキ大将が、マッチポンプながらも「こういうことはもうやめよう」と勇気をもった発言によって中止された。おれがいじめていた奴は、かつてそいつの家に行って一緒に遊ぶほどの仲だったのに、身体的な障害が後に判明したのを理由に、そいつに対する複数人からのいじめにおれは加担していた。当時のおれ自身の心境をおれははっきり覚えていない。ただ3つ覚えていることがある。1つは、おれともう一人仲のよかった友達がいて、そいつはいじめられているやつに対して終始態度を変えず、「どうしてそんな酷いことをするんだ」とおれに言ってきて、おれはたしか上手く答えられないままだったという記憶。2つ目は、ガキ大将に「もうやめよう」と言われたとき、1つ目のことと重なって、おれは自分がまったく何も考えていなかったことに気付かされたこと。3つ目は、高校受験の時期になって、隣の中学に進学したガキ大将とその時のいじめられた対象が、仲良くやっているのを見て、おれはガキ大将にもそいつにも、仲良くしたかったのに、今更何も言えることがなくて自分にうんざりしたことだった。おれはついぞ、そいつに謝ることもできなかった。勇気もなければ、機会を持つ気もなく、自分から直接罪を白状する気もなかった。今更になっておれは罰されようとしていて、この話を文章にするのももう数度な気がする。それでも未だ、おれはそいつに直接謝る気持ちを持てていない。今更すぎるしキモいだろうとか、自分の慰めの為にそいつに合わせる顔もないだろうとか、そういった「やらないための理由」ばかりが出てくる癖して、内心では、こんなことを文章にしたいほどに罰されたいような許されたいような気持ちが芽生える。

 もう一人のいじめは、終着点を覚えてすらいない。覚えてすらいないのに、おれはいっぱしの青春を謳歌していた気がする。それが当時のおれにとって、自分で自分を許せない理由になっていた。おれは当時大事なことを話さなかった(今もそうだ)から、この気持ちはずっと内心に抱えたまま、誰にも理由を話せないまま、外面的には意味不明なほどに自己肯定感の低い人間に見えていただろう。あるいは普段は支離滅裂なほどに機嫌がいいのに、ある時急に自分の頭を殴り付けるような、変な人間に見えていただろう。それは多くの場合、過去の自分が犯したことを省みて、おまえは何にも変わっちゃいないな、と自分を叱責する行為だった。おれは半端な奴だから、そういった自分の内心にとどめておくべき罰を、目に見える形で自分に実行してしまう時があって、それが周囲を困惑させることもあった。おれは欠陥品だ。

 

 作品の話に一瞬だけ戻ると、おれがこの作品に妙な共感をしてしまった点はもう一つあって、これも自分の実体験に基づくことだ。おれは前述した二人のいじめから間もない時、別のもう一人、人から遠ざけられているような人間がクラスメイトにいて、おれはそいつと積極的に会話をすることを試みた。理由は今にして思えば二つあって、ひとつはおれがそのころオタク趣味というのを持ち始めていて、そいつがそういうのが好きな奴だということを知っていて、それが人の気に障ったのだろうと思っていたから、同じ趣味を持つ自分としてはそんな理由で虐げられることが許せなかったということ。もう一つは、おれは前にした自分のいじめに罪悪感があって、その救済としてそいつを助けてやりたいという傲慢な気持ちがあったということだ。このもう一つは、今日まであまり思い至らなかったことのようにおもう。だが時期的に間違いなく、おれは二度とよりを戻せない二つのいじめの加担を経験して、そのお咎めもなしに生きている自分に対し、今ほどの自責ではなくとも、いいようのない浮遊感があったことを認めなくてはならない。だからこそおれは、同じ目に遭いそうな、それも同じような趣味を持っていそうな人間に対して、そういったことが為されるのを見ていられなかったのだとおもう。

 そいつは中学の中頃までそれなりに仲が良かったのだけれど、おれがした失敗のお陰で、そいつとは仲良くなれなくなってしまった。今にして思えば謝ればまた結果が変わったかもしれないのに、おれはいつも、謝る勇気がなかった。どんな面を下げてそいつに向き合えばいいとか、そういったどうでもいいことで何度も何度も逡巡して、ついぞ顔を合わせてしまった時にまともな会話もできず、そして交流を失くしていった。おれはいつもそうだった。自分のした加害を、頭の中では反省を済ませても、それを相手に伝えることをいつだって躊躇った。何がそこまで怖いのか分からなかった。謝れば何かが変わったかもしれないのに、おれは「何を謝ればいいのか」が分からなかった。頭の悪いことは考えずにいつも口に出せるのに、考えて相手を思いやって伝えるべき言葉が、いつも口から出なかった。そんな癖が、未だに続いている。おれはどうしようもないやつだという気持ちを、そういった罪と、それに対する贖罪を前向きに行えない自分自身が、促進している。

 

 おれがこの作品を見て、本当に泣いてしまった場面は、いじめの加害者であった主人公と同じ苦しみを、いじめの被害者自身も同じように持っていたということだ。「自分はどうしようもないやつで、本当は生きていたらいけないやつだ」という自己否定と希死念慮を、加害者も、被害者も、同じように抱いて生きていた。これが、おれには、あまりにも複数の視座を示すようで、涙が止まらなかった。

 おれは加害者というものは、自分の犯した罪に無自覚で、のうのうと生きているものだと思っていた。被害者というものは、加害者を忘れられず、そいつを恨んで生きているものだと思った。だけど彼らの物語では違った。加害者はその罪の自覚が自分の慰めに向いていたにしろ、被害者に向いていたにしろ、その罪に自覚的で、それが自殺という行動に結びつくほどの重い認識になっていた。そして被害者は、その加害者が加害者たる存在になってしまったのは、自分という"間違い"が生まれてしまったことが原因だと考えて、その過ちを今後生み続けないように希死念慮を育てていた。おれはこの構図が、救われない袋小路だとおもった。ふたりが自分の罪と苦しみの想いを白状し、対話することに望みをかけるほか、この暗い森は抜け出せないまま重い荷物としてふたりの人生を塞ぎ続けるであろうことが、あまりに救いがなくて、しかしそこだけに救いがあった。そしておれがおもったのは、不埒ながらおもってしまったのは、おれも対話に救いを求めたならば、こういった救済があったかもしれない、という可能性に気付いてしまって、自分の視野の狭さと、そして二度と取り戻せない時間への後悔ばかりになってしまった。

 

 おれは思い込みが激しい。特に、「自分の言いたいことは必ず伝わら"ない"」という思い込みは、いつもおれの人生の障害だった。おれは本心を隠した。しだいにそれを伝える術を失くした。大人になった今でさえ、本当に思っていることを伝えるために、直球を投げる方法も、婉曲な表現さえも分からない。そういう場を設けることもできない。おれはもしもの時の謝り方がわからない。だから、こんなにも成果に対して強迫的だ。成果を出さなければ、謝ることができないのだから、その時は逃げるしかできない。そうやって現実であれインターネットであれ、おれは明確な謝罪もなく逃げ続けてきた。おれはそんな、最低の人間だ。そして、最後の手段が「逃げ」しかないのだから、おれは誰にも理解されない。「おれの言っていることが理解されるはずがない」という思い込みが、最終的にその結果を招く始末になっている。救えない。救われるはずがない。同情の余地もない。おれはそういった人間だ。

 

 

 おれは創作ができないとき、今回いったようないじめのような話とか、他にも人に言っていない自分の犯した過ちとかを、全部「理由」にして、創作を続けてきた。創作に限らず何か成果を出さなければならないときは、いつもそうしてきたようにおもう。

 おれは悪いことをしたから、その埋め合わせをしなければならないだろ。過去に悪いことをしてしまったやつらに、このままじゃ示しがつかないだろ。いつか会った時に、示しがつかない人間のままじゃいられないだろ。

 そういった、間接的な謝罪にさえなり得ない理由を理由として、おれは創作に限らず人生のいろんな契機で自分を奮い立たせてきた。思えばこんなのは、自分が自分の足で立てない臆病な腰抜けであることを、自分が過去にやってきた「信じられない罪」をエサにして封じ込めているだけの、極めて利己的で、何の謝罪にもならない、ともすればその被害者を肴にしているだけの行為だ。おれは過去の被害者をポルノにして、そいつらへの直接の謝罪からは逃避し続けて、何の贖罪にもならないことに贖罪を見出して生きる意味を見つけているだけだ。おれは贖罪に酔っている。おれは偽善にもならない偽善を続けている。そうとしか思えない。ただ一言「ごめんなさい」を言えなかったこと、今でもそれを言えないことを、長々と、滔々と、理由に並びたてて絵を描いているだけのクソ野郎にすぎない。

 

 だからもう、理由を求めることなんて終わりにしたい。

 過去の過ちは、たとえ許されなかったとしてもまずは謝るしかないし、行動で示すのはその後だ。そいつが何を求めているのか、何も求めていないのかを知る前に、自分の思い込みだけで偽善を働くのは二の次だ。そんな誰も望まないことで自分を燃やし続けることに限界が来ているから、おれは筆を握れなくなったんじゃないか?

 本当は「物事を始める理由」なんて、「やらない理由」と同様なほど、無限に湧くし特に意味もない代物で、結局は「何を描いたか」という結果でしか何事もはかれないんじゃないか。理由なんて、多くの「自分では立てない者達」が、自分にもできたらいいなあ、程度に求める言い訳に過ぎなくて、本当は偉人達が語る理由なんて、求められたから後付けで作っただけの言葉の道すじに過ぎないんじゃないか?原因があるから結果があるのではなく、結果があるから人は原因を考えるだけだ。原因が物事を作るんじゃない、過程は再現できない。ひとが創作にいたる経緯なんて、方法や理論を教示できても、その理由付けを事前に確実に行うことなんて不可能だ。そうじゃないか?そう考えて、「理由付け」なんていう不毛な時間の浪費から逃れる他、おれが筆をもう一度取る方法なんてないんじゃないか?

 人に向き合わず、まともに対話をすることも臆病で放棄してきたおれが、戦略的に結果を予期して物事を進められると思うか?観察を遠ざけ、自分への内向を求めたおれの青春と、その結果の今に対して、まともな思考を求め取り戻そうとすることこそ無謀でしかないんじゃないか?おれはまともな人間ではない、生きていてはいけないやつだという認識を改めたいなら、おれは創作なんてしている場合じゃない。そんなことをする前に取り戻すべき基盤がある。でもそれが嫌で、まだ逃避を続けたいなら、おれは狂ったまま筆を握る他、何がある?

 立てたんならその過程なんて人は気にしない。立って結果を作りだしたことだけが重要だ。そのための機械に成り果てたっていいから、おれは、何か作品を描き続ければいい。それが狂った人間として、道理に背いた人間として、正しく道理どおりに破滅するエンターテイメントじゃないか?

 まあ、進んで破滅する気は今のところないけれど、しかしその時になれば、おれは進んで破滅してでも作品を描き続けるべきだとおもう。その時は、過去の罪がどうとかじゃなくて、おれは生まれた時からそういうやつだったと、そう言い切って地獄へ堕ちたいとおもう。

 

 今後なるべく、罪の意識を感じた人間には、謝るように努める。それが全部遂行できる自信は、今までの自分の実績からすると、まったくないのだけれど。

 そして、その謝罪ができなかったことを理由にして、というか何かしらを理由にして創作に打ち込むのは、もうやめようとおもう。そんな「理由」なんてものは、創作以外の方法で解決できるようなことを、おれが逃避した結果に過ぎないから。そして、そこに込めたい何かは、贖罪でも絵を描くための理由でもなく、何か別のところから探すべきだとおもう。自分の経験が作品と切って切り離せないものだとしても、理由付けが支配的になるようでは、作品がおれの思想だけに支配されてしまってつまらないものになると直感できてしまう。これは、未だ言語化できないけれど、なんとなくの直感だ。

 おれは作品を作る機械だ。そうでなくてはならない。おれは誰かの為じゃなくて、おれのために、呪いをかけ続けようとおもう。理由なんてなくても走り続けられるように。