この手を血に染めたなら

 今からする話は他人の受け売りなのだけれど、受け売りでさえも10年も続けていれば、まるで自身の内にもとからあったかのように深く根付くものだ。ある時おれは、間違いなくこの考え方を一日に何度も反芻して覚え込ませていたし、その結果この思想は、あらゆる出来事に対し自然的な反射として導かれるほど当然の摂理になった。

 もはやこれが、おれがもとから持っていた何かと相性のいいものだったのか、それともおれがただ憧れや希望を一心に反復を繰り返すことで自己洗脳を果たしたのか、それは分からない。おそらく、そのどちらもなのだろう、という感想だけが転がっている。

 ひとつ言えるのは、おれは自分で自分の背中を押したということだ。

 

 人間にはいろんな奴がいて、そいつらはひとつの物事をとっても、一人一人考え方が微妙に、あるいは大きく異なる。ひとつの物事の理解でさえ違いがあるのだから、複数の物事の理解にはより大きな差が生じたり、あるいは不思議と、一つ一つは違うのに、複数となると同じ方向に収斂したりする。殺し合いはよくない、とか、人には優しくしよう、とか。そいつら同士の考え方はまったく異なるのに、なぜか結果として同じ方向を向いたりする。ただし、このような結果だけを見ると、「そいつらの独立した考えの積層がなぜか同じ方向を向いた」という集合的無意識なのか、あるいは空気に気圧され、流れに身を任せ、思考をある程度放棄したうえの秩序として形成される「答え」なのか、あるいは誰かが何かの目的のために流布した無根拠な「常識」なのか、もはや見分けはつかない。

 けれどおれには一つだけ決めたことがある。状況がなんであろうと、どれほど絶望的で安全に乏しくても、現状を理解して自身がこれしかないと選ぶ道ならば、「おれがおれの背中を押したんだ」と認識する。

 

 それができるのは、この世界の残酷さを了解しているからだ。その全貌を理解していなくとも、この世界はきっと苦痛と悲哀に満ちていて、それだけが逃れようもない事実だと認識している。

 絵を練習することは苦しい。作品を発表し、他人の成果とならべて自分を認識することは苦痛だ。

 日々を生きることは苦しい。ただおれが話すだけで、だれかが大事にしていた考えを踏みにじり、その芽を摘むことがある。

 だれかを想うことは苦しい。どれほど何かのためと願おうと、そいつを翻って傷つけ、道の邪魔をすることがある。

 

 その中にいかほどの喜びや恵みがあろうと、ただ一滴の苦痛や後悔が介在するならば、おれは致命的なほどその場から動けなくなっていた。

 おれはある時から、自分が周りに与える富なんて些細で、ただ息をしているだけで周囲の人間の時間と労力を奪って生きていると、毎秒毎秒認識している。おれが生き急ぐのは、ただ呼吸をするだけでは、おれは誰かから奪い続けるだけだと考えているからだ。おれが考えるのは、焦って手を動かしても、その先でトラブルを起こし、誰かの大切な時間を奪うことが起こるからだ。

 おれは何も奪いたくない。誰にも奪われたくない。なのに、生きているだけで悪意がなかろうと、おれたちは誰かから何かを奪い続ける。日々何かを選ぶのが人間だが、自身の選択で誰から何を奪うのかが決まっていく。それが生きていれば当然起こり得ることで、生きるということは何かを選び続けるということであり、何かを選ぶということは略奪が発生するということだ。

 「持ちつ持たれつ」なんて綺麗な言葉があるけれど、おれからすれば殺されて殺しているという事象にすぎない。それも、そこには憎悪や悪意が存在するのではなく、ただ生理現象のように、あるいは自然の摂理のように、殺して殺されて、奪って奪われて、そうしていつか土に還るという現実が横たわっているだけだ。身の回りのあらゆることで、そういった無自覚な残酷さが転がっている。おれには世界がそう見える。

 

 だからおれは、「世界は残酷だ」ということを了解することに決めた。それをもう10年も頭に刻んできた。はじめはそんなはずはないと信じる気持ちもあったが、今ではすっかりその思想に洗脳されている。自己洗脳したのだ、とおれは思っている。

 この考えが画一的な答えではないだろう。世界がもたらす喜びの一面に意識を向け、それに出来る限り素直になることもできるし、あるいは残酷であろうと喜びに満ちていようと関係なくただ流るままに身の回りを自然と受け入れることも、一つの生き方だろう。だがおれの場合はそれができなかった。生きているだけで他者を蝕んでいるのが人間だという考えが、深く根差しているからだ。

 何かをしない限り、生まれてしまったことの帳尻合わせはできないと、そしてそれをする責務が少なくともおれ自身にはあると、強く、強迫的に、視野狭窄的に、おれは思い込んでいる。そうやって自分を客観視して認識してもなお、おれは「世界は残酷だ」という理解と、身を滅ぼそうとも進まなければならないという解は離れることがない。

 

 自分でその道を選んだ結果、どれほどの苦痛に苛まれようと、どれほどの害を他人に与えようと、それが自分の目的へ大きく関係するようなトラブルでなければ、おれが歩みを止めることはない。

 その先で「歩まなければよかった」という後悔が待ち受けていようと、ただ暗澹としたまま何ひとつ明らかにならない地獄が待っていようと、おれは前に進み続けるしかない。

 さもなければ、「奪い奪われるくらいなら、この世を降りる」という選択を取るしかないからだ。おれが弱いから、奪うことをやめて奪われる側として生きます。あるいは、奪うも奪われるも嫌だから、おれはこの世から去ります。ということを了承するほか、おれが歩みを止める方法はない。

 おれが歩むのをやめる時は、それはおれが自身は世界に害をもたらすだけの存在だと、生きるだけで他者を蝕み続けるだけの荷物だと諦めた時だ。それは絶対に許容できない。そんなことを許容したら、おれは過去に蝕んで苦しめた数々の人に、あるいはその事実を知っているおれ自身に、いっさいの顔向けができない。息絶えるその瞬間に、おれは生まれるべきじゃなかった、という結論になってしまうということは、おれが彼らを傷つけたことが何の意味もなかったことになる。

 

 おれは残酷なまでに、意識するとせざるとに関わらず、他者の血肉を喰らって生きているのだから、そこで他者に喰われることは当然起こり得ることだ。

 そして、その日に備えて今日を生きなければ、おれは自分が喰らい傷つけてきた数々と共に喰われる。仮に備えたとしてもその日は来るのだろう。だけど、どうせ喰らわれるのなら、ありふれた砂粒ではなく、ダイヤの原石として喰われたい。おれがもし誰かに喰われたなら、おれを喰ったそいつに対してそうであってほしいと願うだろう。だから、おれはおれが喰ってきた奴らのために、あるいは自分をいつか喰う奴に願いを託せるように、おれがおれを諦めて生きるわけにはいかない。瞬く星のように、他者を喰らって燃やすこの命を、「生まれるべきじゃなかった」なんて結論に陥れることは、あってはならない。

 さもなければ、おれは自分が喰ってきたやつらごと、何の糧にもなれなかったという耐え難い悔恨の中で死ぬしかなくなるのだろう。

 

 この世は地獄だと、残酷の極みだと了解していれば、自分が選んだ道の先でどれほどの光景が待っていようと、おれは進み続けることができる。それが自身の目的を大きく侵害するものでない限り、おれはそこで歩みを止めることはない。笑顔も喜びもあるのは事実だ。だけどそこに苦痛と後悔が、懺悔と憎しみが、あるいは意識さえもないただの事象としての殺戮が転がっているのも確かだ。おれはいつかそいつらに殺されるのだろうし、今まで傷つけられてきたし、そして同じことを他人にもしてきた。だから、おれがどれだけ残酷さに傷付けられようと、それは当然だと了解できる。

 作品をつくることがどれほどの苦痛に満ちていようと、それは当然起こり得ることだと了解できる。どれほどの地獄であろうと、おれの背中を押したのはおれで、その先で何が起きても進むことを覚悟して道を選んでいる。

 

 そうしなければ生きていけなかったんだ。