いつまでも口に入れたいものと、ただの羽虫

 極めて安直で、ただの老化に基づく感性なのかもしれないと思いつつ、自身のここ一か月くらいの内情を吐露すると、SNSやソーシャルサービスに投稿される、イナゴの大群のような、味があるのに奥行きがないような、人のようで人でないような、そういった文章の羅列を見るのが、以前にも増して極端に、しんどいとおもうようになった。

 これは、ただ単純に文字を見るのが辛いというわけではない。仕事では何時間もぶっ続けで会話を続けるし、一日に何千字も手打ちで入力しながら情報を整理し、その結果を人に向けて展開しては、フィードバックをもらったりもする。ならば仕事で疲れているのか?といえばそうでもなく、仕事の休憩時間で本(大学の授業課題だが)を読破したりとか、自分の過去のnoteの文章を読んでは思考を深めたりとか、そういうことは日常的に繰り返している。では、なぜ取り沙汰して、SNSの文章を見ることをしんどいと思うのか。

 

 現代は「自分で情報を取捨選択しよう」と巷で囁かれるほど、望むと望まざるとに関わらず、様々な情報が目に入る。特にソーシャルメディアにおいては、閲覧者であるこちらの時間を1分でも1秒でも奪わんばかりに、次々とサムネイルや最新の情報を投げつけてくる。昨今において検索エンジンは、近しいキーワードや関係者と思しき別々の情報を抜粋しては、一見繋がりがあるようで、実は繋がりのない情報を敷き詰めて提示する。

 「一見繋がりがあるようで、無い」というのが、おそらく重要なことだとおれは思う。おれたちは繋がりがあるような情報に騙されて、延々とおすすめ動画やタイムラインを読み漁る。目立ったツイートのリプライを見て、気になる人のユーザーページに行って、メディア欄をいつまでも読み漁る。あまつさえ、別の目的でそのサイトを開いたのだとしても、関連があるようでない情報の海を、いつまでも、いつまでも漂って、われにかえったときには、ただ過ぎた時間と、何のために浪費したのか分からない徒労感が降り積もって圧し掛かる。

 

 おれはどうもこの瞬間が嫌いだ。

 騙された、というより、おれは騙されるようなやつだったんだ、という気持ちになる。

 

 ここで「騙される」ということは、何かを何かと誤認していることだと定義付けたいと思う。その「何か」とは、能動的に、明確な繋がりを、あるいは明確と確信できるような繋がりを辿ることで得られる『達成感』と、ただ繋がっているようで何の関連もない情報の羅列を目に入れ続けることで得られる『空虚な満腹感』だ。

 おれは空虚な満腹感を味わった時、どうしようもなく、気持ち悪い気分になる。両者とも、経過で得られる没入のような感覚は似ているのに、おわったあとに得られる感覚がまるで違うのだ。

 たとえばnoteでレビュー記事を書くとき、おれは対象を能動的に理解しようとして、さまざまな情報と情報の線を繋げ、自分なりの考察を繰り広げようとする。これは情報をただ目に入れる行為とはちがい、その情報を使ってなにをしようとしているか、おれ自身の意図が明確だ。たとえ触れる情報のすべてが意図にかなわなかったとしても、次に何を見るべきかが明確にわかる。情報と情報は繋がっている。なぜ彼らがこう考えたのか、なぜこういった事実が起こったのか、なぜおれはこういった考えに陥ったのか。これらが結びついて関連付けられたとき、俺は確かに、情報同士に「明確な繋がり」を感じるし、そこで得られるのは、まるで深い水底に息を止めて潜り込み、その呼吸が止まる寸前までただ進んで、ようやく水面へと這い上がったときに見る景色のような、清涼感を孕んだ「達成感」である。

 いっぽうSNSソーシャルメディアを見るとき、能動的な情報収集の意図がない限りは、おれはその情報をただ自分の目と脳に向けて、大量に、煩雑に放り込むことになる。これらが気持ち悪くて仕方がないのは、多くの場合これらの情報は文脈があるようでないという点に尽きる。タイムラインやサムネイルの数々で飛び交う喜怒哀楽、悲喜交々は、みな、語っている内容が同じようで、前提となっている部分が確実に異なっている。これが、会社の仕事とも、能動的な情報の線の探求とも、まったく異なる点である。タチのわるいことに、これら雑多な情報は繋がりがあるように「見せかける」ものだから、おれはふと目に飛び込んだ語気の強い言葉に惹かれて、なぜこの人物はそう考えたのか、ということを考えて、様々なリプライやコメントの線を辿ったりする。しかし、多くの場合、これらの言葉たちはおなじ視座での会話ができていない。これらは会話ではなく、呟き、叫び、祈りにすぎない。それも、前提を交えない、何を願っているのか、なぜ願っているのかを整理しない、まったくの繋がりのない言葉が、まるで繋がりがあるかのように振舞うのだから、おれはそれらを深く読み込もうとして、しかしそこに何もないことに気付いて、甚く疲労してしまう。辟易してしまう。しかし、腹の中には「もうこれ以上押し付けないでくれ」といわんばかりの「満腹感」が鎮座しており、いっぽうで満腹感の権化となった情報からは何の繋がりも得られず、おれはただ「空虚だ」という、矛盾した気持ちを抱えることになる。

 こうやって、おれはソーシャルメディアを見るにあたり、壁を殴るような、糠に釘というような、まったくの徒労を積み重ねてきたようにおもう。もちろん、それら情報のすべてが無駄だったわけではないし、得られたものや人も大きい。しかしながら、それに見合っているのか分からないくらい、おれはこいつらに時間と労力と、そして人に対する信頼を吸収され過ぎた。まるで人間のような言葉で綴られる文字は、しかし人間らしい前提を理解させようとはしないで暴力的に羅列されるのだから、おれはそこにいる人間がどうも嫌いになりそうになって、踏みとどまって辛い気持ちになる。

 

 文学にも科学にも、そのことばには、情熱であれ記号であれ、ことばを書いた意図があり、背景がある。それを理解することは、疲れて眠るまではいつまでも没入していられるし、その海の中に潜っていくことは、苦痛を孕みながらも、しかし確かに線を辿るような、いきた人の軌跡をたどるような幸福感を与えてくれる。

 おれは人と話すことが怖いし、その人の時間をうばうような質問をすることが苦手だ。しかし、文脈をたどるためなら、その人の背景を少しでも理解して何かに反映しようとする働きかけならば、多少は乗り気になれることに気付いた。そうやって他者の血肉となる時間を喰らってまでも、文脈と背景をたどることには価値があり、むしろその価値をおれは死んでも活かさなければならない、という気持ちになるのだ。

 他方、ただ羅列されただけで、ただ吐露されただけで、背景を考える契機を、それを吐き出させるだけの思考過程を与えないような場において、ただなだれるだけの情報は、それを言う側も、聴く側も、果たして何も得ていないのではないか、という面持ちになってしまう。それらすべてが無為ではなく、また無為だからこそ存在価値がないというわけではないだろう。しかし、おれは単に、どうもそれが息苦しくて、人間を嫌いにさせそうで、居心地が悪い。

 

 こんなところに承認を求めたから、気が狂ってしまったのだとおもう。

 だから最近あんまり見てないけれど、そこはもう、おれの平静を保つために、あるいはおれの創作を保つために、赦してほしいし、赦されなくとも、おれはあんまり、そういった羽虫の大群のような言葉を視界に入れたくない。

 

 こんなことばかり言うのだから、最近はどこも居心地が悪くて、本と、理論と、作品と、ただ目的を同じとする前提を持った人たちの集団に安寧をおぼえて、おれはインターネットからすっかり遠ざかってしまったようにおもえる。

 おれはどこに行きたかったのか、その答えはわかるようで、もう分からない。しかしそんな今でこそ、おれは行くべき路を仮定して、目標に到達するための計画を立てていて、足を止めれば死ぬと自分を脅迫していて、そのくせ得たいものは何一つ得られなくて、尊敬すべき他人から奪ってばかりで、つくづく、救いがないな、とおもう。