わたしだけがいる水底

 他人と比較することがひどく増えた、とおもう。

 

 本日、異なる二者の偉大なる方から、「感動している方が筆は早い、描ける枚数は多い、つまり絵は上手くなる」「感動が枯れてしまっているなら筆を止めてでも恢復を図るほうがよい」という訓示を得た。

 それを聞いておれは、自分のなかにそういった感動と呼べる灯はいまだ輝いているか、おれはただ源泉を失ったまま、乾いた瞼のまま、あてどもなくただ「上手くなりたい」という理由も原因もわからぬ機械的な情動にしたがって前進しているだけではないのか、といった自問の波におぼれることになった。きっと、このような言葉をかけられる前から、おれはかつて自分のなかにあった衝動というか情動というかが、何かに変質したか、あるいは消え去ってしまったことを薄々勘づいていたのだとおもう。

 

 その筆を握れないのは、その筆を握るよう機械的に設定していないからだ。

去年の今ごろから、おれはそういう風に考えていたとおもう。これもまた誰かから得た言葉を変形したものなのだけれど、つまりは成果を出すことにおいておれはおれの感情を信用していない。

 感情を優先すれば意味もなく脇道に逸れる。突然にゲームを始めて全部終わるまで二度と創作に戻らない。唐突に本を読み漁って連絡もまったく通じない。そういったことを繰り返してきた。それがインプットだと半ば言い聞かせてきたけれど、まったく何の積み重ねにもなっていないことに数年遅れで気付いた。そのころにはおれとおなじ足で創作を始めた人たちははるか向こうに行っていたし、おれは元来、放っておけば何もしないやつなんだと、痛いほどに思い知った。

 だからおれはおれに絵を描くことをプログラムすることに決めた。そうしなければ気持ち悪くなるように仕向けた。ただし、その習慣が絵の上達、成果に繋がっていなければ容赦なく切った。そうやって適応する苦しみと、慣れた習慣を手放す怖さと向き合って、この一年絵を描き続けてきた。

 それが絵以前の創作で何の成果も出せなかったおれに対する贖罪だ。

 

 空腹で動けなくなるのは満腹を知っているからだ。

 極度の眠気に耐えられないのはそれに慣れていないからだ。

 失意へと堕ちるときに立ち上がれなくなるのは感動をしっているからだ。

 とにかく、おれは足を止める要因を、習慣化を止める要因を排除してきた。それにはおそらく、おれが怠惰の海に沈んでいた時にふつうに横たわっていた感情も含まれているのだとおもう。それが必要だったのか、あるいは不必要だったのか、それはいまだに分からないが、なにしろ元あったものが欠落しているような感覚は拭えない。

 

 おれは、喜びや楽しみというのを素直に受け取らないように、それを消費したいという欲をやり過ごして生きているようにおもう。たとえ描きたくなくても描く。それが本当に筆を執るべきときに必ず役にたつ。それができなければ同じ後悔を繰り返すだけだと、呪いのように繰り返している。その後悔を感じるときは否が応でもいつか巡りくると、半ば強迫のように自己へ刻んでいる。

 けれどそんなときに、「感動がなければ上手くならない」だなんて言われると身を斬られるような思いがする。

 

 情動にしたがった結果、筆ではなく、統一性のない享楽に興じたおれの四半世紀から得た反省と教訓を、おれはただ実行しているにすぎない。さもなければ永久に、描きたい作品など描けはしないし、支えになりたいときに何一つできない。そんな苦しさをいつか味わうくらいなら、目の前の享楽や消費など要らない。フィクションでなく半ば本気でそう思っている。

 そしてこの考えはおおよそ、誰の共感も得られたことがない。無理をするなと、頼むからまともに生きてくれと、それで倒れられたら迷惑だと言われる。だけどおれには、これ以外に平静をたもって生きる術がない。そもそも倒れるなんて思っていないし、それができなければそれこそ生きながら死ぬだけで、なら死んだって生きた方がマシだとおもう。それがダメなことだというなら、こうやって身を捧げるほかに、どうやって流れる星々に追いつけばいい?気を抜けば永劫の怠惰に沈んでにへらと自嘲気味にわらうだけの生き方しかできないおれに、これ以外どういう方法で、怠惰ではなく前進へと向かう方法を教示すればいい?そうやって何度も後悔を連ねて、重ねて、自分を呪ってきたおれを、ただ狂うほどに鍛錬と人並み外れた道へ導く以外に、どうやって許せばいい?

 

 たとえ理解を得られなかったとしても、自分の過ごした時間を根拠に進み続けるだけの気概がほしい。感動がなければいけないと言われても、おれは感動や情動にただ従うだけでは何もできないんだ、ということを、誰かに意見を求めるでなく、誰かの否定を得たとしても、それでも自分で決めたことだと進めるだけの継続がほしい。

 もしそんな生き方が身近に認められないのなら、ならいっそ関わりも断ってお互い消息もしらぬままでいたいとすらおもう。

 

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 ここまでひどく否定的なことを言ってきたように思うけれど、おれは「感動がなければ」という点に関してはとうにクリアしているじゃないかと、ここまで書いてきた結果思っている。

 寝ぼけて重力に揺られる頭の中で、SNSを見たい通話をしたいという一過性の気持ちを押さえてキャンバスをにらむ間、おれは片時も、なにをしたいかということを見失ってはいない。それは人と比較すれば、理解には程遠くて、意味不明なものかもしれないけれど、しかしおれにとっては明瞭だ。比較できないことを劣っているように見てしまうだけで、ただ事実、灯は存在している。

 

 おれは、ため息がでるほど、失意の底にいても見開いて見上げてしまうほど、輝きをうしなって自死が頭をかけめぐるときでも、その人自身にねむる底知れない情動を喚起する作品を描きたいとおもっている。

 自分はもうだめだと、もういいやと、あの人みたいにはなれないと、抱いた夢はかなわないと、そう言いながらも諦めきれずに目線を向けては憎しみと後悔を呟いてしまうひとびとを、また歩くしかないだろと、おまえのその目は二度と他のところには向けねえよと、おまえの脳は別の現実を受け入れられなくなっていると、だから足が折れても志が折れても人ではない何かになっても走り続けるしかないだろと、そういうことを言いたい。いつかはこの星の塵芥になって、砂塵の一粒になって何も残らないのなら、燃やすようにこの時間を生きるほかにないだろうと、そういうことを言いたい。それはきっと、具体的な誰かに言いたいのもあるし、そこから逃げようとするおれ自身に対して言いたい気持ちもある。

 おれの作品はおれのそういった哲学と結びついて、まだ燃やせる体が残っているのに膝折る人を、ふたたび死地へ追いやるためにあるのだとおもう。そうでありたい。死地へみずから赴くということは、理解されることを捨て、執着を捨て、向き合いたい対象へ一心にたちむかう、愛とも呼ぶべき貴い姿勢だとおもう。おれはそういう美学のために生きている。願いに呪われて、自分を呪って、もう美学の重力から二度と逃れられないならば、人から見れば悪魔であろうがこの上なく愛したいとおもっている。

 そういう論理とも言えない展開が頭を廻るとき、誰にも理解されないだろうなと思いながらも、しかしその対象と、誰にも明け渡せない関係を紡いでいて、おれがいつか塵芥になったとしても、おれが今水底にもぐるようにして得たこの心象だけはだれも奪い去れないだろうとひどく大事に大事に思う。そして、こうやって水底に沈むことそのものが、孤独を癒し、他人を気にする気持ちを洗い、おれをおれにさせてくれるのだとおもう。

 

 法外な力を得られれば、共感など通り越した先で、没入して、何も気にしなくていいようになるのだとおもっている。

 だからおれは作品をつくる。傍から見れば理解できなくて、破滅に向かっているようで、感動を失ったように見えたとしても、おれには確かに潜りたい先の風景がある。

 それが何であるか明確に伝えられるようになるのがいつになるかは分からないけれど、ただ今は、共感や理解でなく、発見と没入と繰り返したい。共感と理解は得たいものではなく他者へしめす手段として、発見と没入はおれがおれであるために必要な糧として。その先にしか道はないと、おれは常々おもっている。