人間なんて大嫌い

 まず第一に、おれはこの世界と人間がたぶん嫌いだ。どれだけ心が動かされるものを見たとしたって、どれほどの優しさに触れたとしたって、そこでおれの中に芽生える感謝とか善意とかいうものは、もううんざりだと思う。たぶんおれは、世界と人間が嫌いというより、それらに触れることでおれの中に芽生える反応が嫌いなんだ。こんなもの、いくら誰かに助けられたってどうしようもない。おれが見たくないのはおれの内心で、その内心を引き起こす観測を忌避するために孤独を選ぶのだから、おれの魂がこの肉体を離れないかぎり、おれは自分も人も愛することができないだろう。無償の愛は滅んだ。少なくともおれの中では。

 

 おれは裏切られたり、自分の押し付けるそいつの像が壊れることが怖いのだとおもう。けれど、そんなの相手にとったら勝手だ。だけどその勝手を、おれは世界を信じ続ける限り、止められない。おれがこの世界を光だと捉えたり、おれが人間を貴いもので大切なものだと捉えるかぎり、おれはいつもその理想の崩壊という危険を抱えながら砂上の楼閣で幸せを享受しなければならない。そんなのはもううんざりだ。自分が正しいと信じているうちに、人様の傷ついた足を踏みつけているような無遠慮に成り果てるくらいなら、おれは何も信じないことを前提としてやっていきたい。そんな人間賛歌に加わって牧歌的に生きることは、こころが落ち着いて幸せだとおもうことが人間として在るべき姿だと信じることは、もうやめにしたい。それくらいなら、生きることは傷つけること、汚れること、汚すことだと了解して、無償の愛なんて在りもしないと決めつけて、おれはおれの潤滑を守りたい。そんな茶番じみた楽園を探すことに躍起になって時間を浪費するのは、もう嫌いだ。

 

 おれはもし生き続けるのなら、この先何かを為したいとおもうのならば、まずは身の回りに向き合ってそれらを理解しようと試みることが重要だろう。しかしそこで芽生えるのは感謝や善意、愛情ではない。自分の内心が気持ち悪いという不快感だ。おれはきっと、その不快感を克服することができない。不快を快だと捉えたとき、その砂上の楼閣はいつも崩壊の危機を招くからだ。おれはそんな足止めのリスクを抱えて笑顔を保つよりも、そこそこ死んだ目でしかし双眸は常に目標を見据えて両手はいつだって空けられるような、そんな坦々とした居住まいでいたい。本当にこの表現が必要なときに、おれの足が動かなかったら、何の意味もない。

 ならばやるべきことは、世界を快であり理想でありうつくしいと捉えることではない。かといって、世界や人を憎んで恐れて目と耳を塞ぐことでもない。いくらでも解決すべき課題はある。いくらでも表現すべき事柄はある。そして、それに向き合い続けることが必要だ。

 

 どれだけ気が狂いそうでも、時間は待ってくれない。おれの寿命も、その物事と触れ合える時間も、いまこの一瞬でさえ刻一刻と失われ続けている。何もかも時は移ろい変えてしまう、大切なものも美しいものも、二度と忘れまいとした想いさえも、また自分自身の想いでさえも、まるで他人になってしまったかのように足蹴に扱うことができてしまう。それがどれだけ痛くて、どれだけ苦しくて、どれほどの希求に溢れたものだとしても。そしてその解決を先延ばしにしたおかげで、その病状が再現したときに解決がわからなくてさらなる苦しみに見舞われる。世界を信じたせいで解決を先に委ねて、自分自身を追い詰めるような馬鹿な真似は、もう繰り返したくない。うんざりだ。好きでいることも、愛することも、大切にすることも、もう嫌いだ。

 おれにできることは、そいつを他者に復元可能なようにパッケージにすることだ。そのためのことば、絵、何かしらの表現を磨き続けることだ。理解して、形にして、伝える。それは必ずしも自分以外の他人ではなく、自分自身に伝えるためにも、おれは表現を続けていくのだとおもう。忘れるなと、そこに確かに声はあると、そこに確かに痛みがあると。

 世界と向き合うことは不快であり、向き合うことが必要である生活に関するさまざまな営為とは不快であり、すなわち生きることは不快であることを、おれが了解しなければならない。でなければ安寧の感覚とともに足は止まり、後悔や痛みは他者であれ自分自身のものであれ忘れ去られ、同じ路をたどったときでさえ二度と解決の復元が不可能になるだろう。また、さもなければ、おれは不快を受け入れたくないと塞ぎ込んで、この場合も訪れる負の感覚と出来事に何も対処する手段を失うだろう。すべての痛みはそれを記録する契機であり、おれのすべてはそれを伝えるためにある。そして、現実に起こりうる痛みの数々を、存在しないものと無視することはできない。無視しようとしても、し続けることができない。必ず向き合うときが来る。だからおれは筆を執って、苦しみに向き合って、形にして、いつでもおれが理解できる形に変換しておく。こんな頭蓋に収まったこれっぽっちの容れ物に、記憶を頼ることはできない。おれは救いではなく、他者の為でなく、ただ自分の備忘のために、感じたことを記号としてでなく感情として思い起こせる形にするために、表現という手段をとる。それがいかに不快で、裏切りに満ちていて、世界も人も最悪だと認識させるものだとしても、嘘のうえで快楽を得て、本当のことに立ち会ったときに喚きたてるより、おれは遥かによいことだとおもう。これは誰かに勧めるとかそういうことじゃなくて、おれの問題だ。憧れとか信頼とかべき論とかとは一線を画した、おれ自身の問題だ。だれも付いてくるな。

 

 本当にひどいことばかりを書き続けていて申し訳ないのだけれど、これが破滅願望ではないということだけは示しておきたい。おれはたぶん人間も自分も嫌いだし、未来への希望もまったく持ち合わせてないけれど、「苦しむことは莫迦だ」と一蹴できるほど、完璧に嫌いになることはできないらしい。そんな半端者だから、基本的にはみんなのことが嫌いだし信じないようにするけれど、目の前で起きていることだけは、善意でも救済でもなくただ個人の興味として向き合い続けたいという意思表明がこれだ。そしてこれは誰かに向けたものじゃなくて、おれに向けたものだ。もしおれがまた、描き続けるのが苦しいと宣って足を止めた時に、そんな馬鹿を殺して前を向かせるためにこの文章を使いたいというだけだ。

 

 だいたいのことは移り変わってしまうし、そんな風化を止めることもきっとできないし、だからここで大層おおきく言い出したことのおおくは、おれがこれから生きるに従って意図的に、あるいは掴もうとしても永久に失われてしまうのだとおもう。けれどそんな残酷さが予期される中でも、何かを忘れたくなくて、とくに足を止めてほしくなくて、おれはこういう呪いを自分にかけようとおもう。たとえ今の主張がおれ自身に一ミリも理解できなくなったとしても、おれにはこれしかないと思い込ませるための言葉だ。けれどたぶんここの言葉は、言い方の強さよりもずっと束縛感のうすいものだとおもう。むしろおれのことばが、信任に値しない希望とやらに潰されてしまうのを防ぐために、おれはこういうことを書いている。だから、そんなに悲しいことでも、強調すべきことでもない。ただ、忘れるなという主張だけは、残酷かもしれない。そんな残酷さも含めて、おれは了解すると決めたい。そうしなければ生きていけないだろう。