日常の帳は急峻に降ちる

 「明日世界が終わっても、後悔しないように今を生きよう」というのは、『ひぐらしのなく頃に』における竜宮レナの言葉なのだけれど、これはおれが小学生の時分に知ったからか、あるいはおれの性分と相性がいいのか、どうにも青春の時から離さず離れず持ち歩いていることばのように思う。

 平坦にして平穏な日常はあるとき急激に終わる。
 終わることでさえ日常であるかのように訪れる終焉は、しかし慣れることのないものである。

 ともだちとの話が盛り上がって帰ってきたときに限って家の中でトラブルがおきていたりとか、完璧にやりきったと思っていたことが誰かに致命的な迷惑をかけていたりとか、宿題をやろうとしたら「宿題をやりなさい」と言われて気が萎んだりとか、学生としてモラトリアムを謳歌していたはずが気付けば成績や就職を考えなければならないとか、
 あるいは、突然にして災害が起きるとか、突然にして腕の一本が永劫動かなくなるとか、突然にしてだれかが目の前から去ってしまうとか、
 とかく、日常という名の湯船が、永遠であることを疑わず浸っていたら、急に湯船が一切合切冷水に代わってしまうような、まさしく寝耳に水といった出来事は、本当に急に起きてしまう。日常と終焉の境界は想像以上に薄いものである。

 ひとは日常の終わりに直面したとき、悲嘆に暮れたり、日常を取り戻すことに執着したり、もう無理だとすべて投げ出してしまうことがある。事実として存在するものを受け入れられず、焦って対策を打って、二次災害的に多くのものを失うこともある。あるいはすべての気力を喪い、昂ぶりを喪失することへの恐怖が拭えず、二度と立ち上がれなくなることもある。
 おれは、自分がそうなったときは一秒でも早く平静を取り戻そうと躍起になる。また、ひとが日常の終焉を受け入れられない様を見ていると、途轍もなくやるせない気持ちになる。

 終焉を「受け入れられない」という心境になってしまうのは、たいがいその人自身の認識の問題だとおもう。なぜなら終焉は事実として存在するものだから。ひとはいつか死ぬし、風景は錆びて朽ちるか取り壊されていくし、おれのこころの中でさえ、この瞬間を超えればまた形を変えていくものである。変わるということを、人間は変えることができない。
 事実を受け入れられないというのは心理として存在するだろうが、思い詰めるほどに現実はただ横たわるだけで、泣いても喚いても焦っても、喪われたものは戻りはしない。たとえ立ち直れないくらいの激情に駆られたとしても、即座に立ち上がってみせるくらいの気概が、この厳しく残酷な現実を生きるには必要だ。

 ただおれの場合、このような悲嘆を伴う終焉が訪れたとき、慰めや共感といった気持ちの整理で済ませるのは、どうにも好かない。
 これはどうしてだろう、おれはなぜ慰めや共感をきらうのだろうと考えてみると、おれは、慰めや共感をしたところで、喪われたものは戻らないし、明日を強く生きることも希望をもつこともできないと半ば強迫的かつ茫漠と考えている。おれがどれだけ足掻いても何も変わらない、ひとはいつか死ぬという結末は何も変わらないのにだ。

 ただ、結局は滅びゆく運命で、それがいつになるか分からないというのであれば、流れ星が自らを燃やして落ちていくように、おれも生きる時間を擦り減らしてでも、なにか執着をひとつでも取り去ったり、真理のひとつでも見つけてみたい、とか、そんなことを考えている。


 終焉に際して気を取り乱してしまうのは、日常がいつか終わることをイメージして日々を過ごしていないからだ、準備をしていないからだ、とおれは思っているし、おれはおれに対していつも警鐘を鳴らしている。
 そしてこの感情は、後ろめたい気持ちや喪失への恐怖だけではなく、青春の時を経て残った数少ない考えとしておれのなかに鎮座している。警鐘を鳴らして自分を奮い立たせるとき、おれは春先のなんともいえない肌寒さと陽気を、あるいは夏場のうだるようなしかし高揚する気分を思い出して、青春の心持ちにたちかえることができるのだ。
 わからないことを理解しようとしたりとか、未踏の出来事に足跡を残したいとか、そういった青春群像が蘇るような気持ちを、おれは竜宮レナの言葉を通していつも思い出せる。

 生き急いで構わないし、失ってばかりでも構わないから、死んだように生を消耗するのではなく、生きるために死に漸近することをえらびたいと、常におもう。それは結局、いつか終わるということを受け入れて生をまっとうしなければ得られない考えだと思っている。それがおれにとっての理想であり、真実であり、桃源郷だ。