歯を食いしばることが目的じゃない

 いま自分は日曜日のイベントに向け移動中で、新幹線の自由席に座ろうとして、出発時刻の30分前にホームに着いている。おれは元来遅刻症で、学生時代もそうだったし、社会人としてもいつも人に迷惑をかけているので、こんなことはかなり珍しい。通常遅刻するときは、あと一分!あと一秒、机にしがみついて作業をしたい、という面持ちなのだけれど、たぶん今回は、前日まで家に篭って次の制作のために煮詰めていたのが災いして、ギリギリまで作業しなくてはならないという強迫が薄れてしまったのだと思う。要するに少なからず疲れている。
 乗車の列の一番前でただ突っ立っているのも癪なので、こうして記事を書くことにしている。

 煮詰めるといえば、おれはこの頃、生活のための本業をしている以外はほぼすべて創作のための時間に割いている。これはもう、やらなければ気持ち悪いという習慣とか、締切を決めた以上やらねばという強迫とか、明日世界が滅んだとしても後悔しない今日をという錆びた鉄のような念慮とか、そういう「止まれない」に基づいている。「王とは絶対に立ち止まってはならないものだ」とはFF15のレギス陛下が、我が子であり物語の主人公であるノクティス王子に贈る言葉なのだけれど、まさしく自分もそういった気持ちをトレースするかのように、今日を、明日を生きている。いや、当然ながらおれは王じゃないし、世界を救うこともなければ、どちらかというとノクティスの側近であるグラディオラスのほうが年が近いのだけれど。

 ただ、おれが最近気を付けていることは、このような強迫のみでは、きっと為したいことをほとんど為せないだろうと思っていることだ。おれは自分を典型的な「いい子ちゃん」だと思っていて、たとえば学校のテストで点数を取って評価されるとか、仕事仲間の苦労を汲んで仕事を取りすぎて上に怒られるとか、とにかく「合理」ではなく、「感情」でものごとに取り組む節がある。このような努力は、あるとき非本質な本音として、あるいは積み上げた労力に見合わぬ成果という形で自分に返ってくる。「こんなに頑張ったのに、だれも、自分でさえも、自分を認めてくれない」。

 さきほどおれの母親から借りた本を読んでいたのだけれど、それはある種の哲学的観点から1300年前の日本史を解きほぐす歴史書で、その本のまえがきに書いていたことばを読んで身を灼かれるおもいがした。
 いわく、真理とは、それより以前に提唱されていた説・常識を、より多くの物事を簡潔かつ合理的に説明することがらを指すとの意見であった。たとえば現代において地動説が信じられているのは、地動説が100%ただしい真理だからではなく、①既存の説である天動説よりも、おおくの事柄を理論的に説明しうる、②地動説よりもおおくの事柄を理論的に説明しうる説が現時点で出現していない からだそうだ。言い方を替えれば、地動説は真理ではないが、天動説よりかは理論的であり、より真実に近づいているのだ、ということだ。
 これの何に身を灼かれるおもいをしたのかというと、おれはかつて、「努力」ということばを笠に着て、合理的でない時間の溶かし方と歯の食いしばり方をして、7年もの時間を無に帰したことがある。具体的にいうと、おれは中学から7年間、部活で剣道をつづけていた。これが箸にも棒にもかからなかった。試合では部内・部外とわず勝てず、段位はたったのひとつしか取れず、次の段にいどむも三度の不合格を通してあきらめた。ふつう二段で三回も落ちない。ならば部活をサボっていたのかというと、そうでもないとは言い切れないが、ほとんどの期間において、サボる同級生を尻目に毎日通い詰めていた。実家の屋外で竹刀を振る時期もあったし、年に数回おこなう走り込みはぶっ倒れるまで走って部内で一番速かった。でもおれは全然うまくならなかった。愚痴を零しながら取り組んでいる部員のほうが、おれよりよっぽどうまくて敵わなかった。
 なぜおれが勝てなかったのか。過去のおれにはつらいことを言うようだけれど、それは、試合で勝つためとか、体の使い方がうまくなるためとか、太刀筋や姿勢に美学を見出していたとかで剣道をしていたのではなく、ただ「つらい練習に意味を見出すため」「明日が嫌にならないため」「部活で培った人間関係を無駄にしないため」といったことが目的の本筋であったからだとおもう。それにおれは途中から、音楽や絵をやりたいと頭の中でおもいながらも前述の強迫にしばられ練習を続けていたのだから、ますます目的は「うまくなる」ではなく「仮初の意義を見出す」ことになる。これでは、才能があるとか、勝ちの経験があるとかに依存して上手くなる以外に上達の道はない。こんな付け焼き刃でその日暮らしの思考では、勝つことはできない。

 当時はそれでもいいと思っていた。なぜなら剣道はおれがいちばんやりたいことではないし、いちばんやりたいことで成果を出せるなら剣道は続ければめっけもんというモチベーションだった。
 しかしいまおれは、創作という、長年先送りにしてきた「一番やりたいこと」に直面している。ここで評価を得られなければ、ある意味アイデンティティがない。「一番やりたいことに全力で成果を出す」といった免罪符で生きてきたおれには、食うことも刺すことも遺すことも叶わない創作に自分の作品が落ちていくことが許せない。そのためには学習や作業をルーチン化させてきたし、モチベーションなんて甘えたことばに依存しないようにしてきたし、ゲームやともだちとの遊びや、目的外かつ時間を食うものを排斥してきた。本業の仕事だって満足に取り組めていないし、これを何年も続ければ、おれは役立たずの窓際族に成り下がるだろう。そこまでしなければ、創作に打ち込む自分像を現実の自分に適用することができなかったからだ。

 2、3年の時を経て、ようやくそのような「日がな創作を考えて、日がな創作をしている」といった自分を作り上げることができた。しかしいまおれの頭を埋めるのは、かつて非合理な努力で溶かした7年間が、今度は一番大切な創作で再発するのではないか、といった途轍もない恐怖だ。何年かけても、おれは創作をなにも自分のものにできないまま、おれの伝えることはひとつも伝わらないまま、この今生を終えてしまうのではないか。これだけの楽しみを、これだけの機会を、これだけの本業に関連する人々を犠牲にしながら、おれはなにも為せないのではないか。

 だからいま、「真理とは、以前の説よりもおおくの事象を説明しうるものである」といった言説に身を灼かれるおもいがするのだ。おれが惰性でつづけ、夢中になるだけの「努力」の時間は、この真理の探求が目的ではない。そんな自分像は、努力は必ず報われるとか、徹夜とかが美学であるという常識に塗りつぶされた誤謬にすぎない。おれは、そんなものの相手をしてはならないのだ。
 一番やりたい創作において成果を出したいのなら、努力という常識を疑い、以前の自分が持っていた方法や説を、より理想にちかい形へと置換する、すなわち発見と破壊を繰り返すほかない。これは、努力に彩られた自分の方法を後生大事に、執着を孕みながら抱えては成し得ないことである。じぶんが長年積み上げたことを手放したくないが故に、目を曇らせ、視界を狭めていては、発見も破壊も生まれない。おれは、いまいちど、じぶんが作り上げた「四六時中創作に取り組む自分像」に向き合い、よりよい方法を発見し、破壊しなければならない。目指すものがあるならば、好きなものを為したいなら、何千時間と積み上げて手に入れた武器を、理想のための一瞬の判断で捨てる、蛮勇にも無謀にも近い勇気の情念が必要だと、それなりに本気でおもう。

 だから、今の自分に贈る言葉は、「歯を食いしばる美徳に溺れるな」だ。