あと一歩の踏ん張りが最後の成否を決める

 どうにも筆が進まないとか、考えるつもりが悩んでいて気が散ってしまうとか、時計の針ばかりを見つめて一日が長いと思ってしまうとか、かと思えば振り返って半月が何をしたのだ?とばかりに過ぎ去ってしまったりとか、とにかく、おれは、少なくともおれには、それなりに時間をかけているはずなのに注力できない/集中できないといったことが度々起きる。不思議なことに、時計の秒針を意識しないで、モニターに映る残り時間を意識しないで作業ができた月ほど、その中身がずっと充実していたような感触になる。それが今月、21年3月、17日時点でこのひと月に対して感じられないということは、おれはきっと今集中できていない。

 

 人間の頭は一日に決断できる数が限られているらしい。決断というのは頭のリソースを最も使う行為であり、ぴしゃりと一言で意思決定をするだけで胡坐をかいているように見えるえらい人は、実は高度な知能労働を行っているということだ。これは絵とかの創作にもいえることで、べらぼうに線の数を増やすよりも、いたずらに時間をかけて文字数や音数を稼ぐよりも、そのひとつひとつ、一本一本に注力して描いたものが積層した絵というのは知らず美しさを放つ。線を引くのは肉体労働ではない、知能労働だ。おれは腕で描いているのではなく、目と頭で描いている。神絵師の腕を食ったってHPが増えるだけで、技を覚えていなかったり、限られたコマンドゲージで的確に技を選ぶ技術がなければ、なにひとつ善いものなど描けない。それは、おれは頭で描いているのだという意識は、常に忘れてはならない。

 

 また、人間が集中状態に入るには数分だか数十分だかの時間を要するらしい。だから、たとえばオフィスにいて別の仕事がすぐ割り込んでくる状況とか、張り詰めた会議中に電話が鳴ったりとかいうのは、想像以上に集中をかき乱す。そして集中の状態に入るまでにおおくの時間をもう一度費やし、そして割り込みが入ればまたその状態はリセットされる。おれたちが頭でものごとを描いているという意識を大事にするならば、とにかく集中できる場所づくりをしなければならない。割り込んでくるものを取り払わなければならない。孤独とか、承認とか、怠惰とかはもちろん、それらを誘発する通知とか、電話とか、人を。いつまでも断ち続けろというわけではなく、それに取り組む時にはある程度、その物事以外のすべてを断ち切る時間を作る必要がある。より善いものを作りたいのなら、悩むだけで空虚な時間を浪費したり、あるいは割り込みによって時間の量の重みだけを感じ、密度を忘れ、半月を無為に過ごすくらいなら。

 

 むつかしいのは、ものごとが上達するためにはある程度既存のものごとを喰わなければならないということだ。絵を描くなら自分が目指す上手い人の絵をまじまじとみつめ、その本質を見極めようと取り組まなければならないし、動画をつくるなら人々に愛される動画とは何かをたくさん吸収しなければならないだろう。だが、たくさん吸収するということは、たくさんの誘惑に勝たなければならないということでもある。インプットと称し、思考のない寄り道をしてしまうことがある。寄り道のすべてが悪というわけではないが、後から振り返って、何の時間だったんだ、と意識してしまう時間というのは、確実に存在する。それは人に愛されないわるい作品を見てしまったとか、そういうことではない。自分にとって吸収できないとか、今必要ではないものを惰性で眺める時間を過ごしてしまったとか、そういう自分の選択の過ちが起因のものである。そのような気持ちになってしまうような選択と吸収をなるべく排斥して、何がしたいのか、何が欲しいのか、何が必要なのかを常に考えて、正座するような面持ちで、遥か高みにあるものごとへと向き合わなければならない。とか、おれは思っている。

 

 最後に、単純に作業をしているとき、少し休憩したいとか思ってSNSを漁ったり、一曲だけだからと音楽を探すために作業の手を止めてしまうことがある。ここまでがんばったんだから、ここまでできればいいだろう、とか、適当な理由をつけて自分の気持ちを納得させて、作業と関係のない、集中を切らすような要因へと手をのばす。おれは、この行為が嫌いだ。本当に資料を探さなければならないときは、おれはタイムラインのロード中に検索マークを連打して一切タイムラインを見ないようにするし、動画だって狙いを決めているときは関連動画に目もくれず、即座に選択してフルスクリーン表示にして、即作業に戻る。集中を切らしてくる広告表示が嫌いという理由でyoutubeプレミアムに入っている。とにかく、ぜったいに集中を切らしてはいけないという気持ちがおれの中のどこかには巣食っている。だのに、時々それを、そんなに大切なことを、しかも半月やひと月といった長期間忘れてしまうことがある。こういうとき、おれは自分が許せなくなる。「明日世界が滅んでも後悔のないように」とはおれの学生時代を決定づけた台詞なのだけれど、この志をわすれて、しがみつきもせず、意図も意思も半端に中空をただよっていた半端なおれが存在していたことに辟易する。

 

 だから、集中を切らす要因として存在する「ここまでがんばったんだから」という声を、「まだだ、あと一歩、あと一線、あと一塗り」と、踏みとどまるおもいで抑圧するその声が、その声の根拠となる、おれを形作ったかずかずの出来事や作品たちを、ぜったいに忘れないように、こういう文章を残しておきたいとか思った。

 

 そもそも「ここまでがんばった」って、おまえの主観にすぎなくて、おまえが行きたいところは、おまえがやりたいことは、そんな主観だけの慰めによって達成されるのか?とか思う。新刊の作業も終わった。大学にもこれから入れる。だけど、それはおまえが為したいことの果たしてスタートでさえないんじゃないか?ということを、常に自分に投げかけて、最後の踏ん張りを、毎日、毎秒、存続させていきたいとおもう。