自分で決めたことを見ているのは自分だけだ

 ここ一週間ほど、特に絵を描いたり、仕事(生活のための仕事であり、絵とは関係がない)をしている最中に、いいようのない不安に見舞われることが多々ある。

 ちょうど金曜日までは、次のイベントのための新刊製作作業を、俗に言う締め切りに追われながらやっていたものだから、まあ妙な緊張感、失敗したらどうしようという想いでピリピリしているのだろうな、とか、適当に自分の内情をあしらっていた。ところがそれをまたいで昨日、今日と、原稿からまったく解放された別の絵を描いていても、また次の絵の構想のためにアプリのメモを広げても、どうも気持ちがすっきりしない。

 

 そこでよくよく自分の声に耳を傾けてみると、「この作品が、自分の行動が、何にもつながらなくて、評価されなかったらどうしよう」といったことを考えている。そういう心境に至るのは割といつものことだし、そんなくだらないことはとうに振り切ったものだと思っていたから、またくだらないことを、と一蹴する。しかしやはり重い気分はぬぐえない。

 より仔細に聴いてみる。「評価を一蹴して生きていけるのは、生活の基盤が絵の製作とは別のところにあるときだけだ。おまえは今はそうだけれど、近い将来創作を軸にして生活して、好きなものも平行して作るだなんて、大層なうわごとを何年も言っているじゃないか。ならば、評価を無視していきることはできない。そして、好きなことを無視することも性としてできない。おまえは強くならなくてはならないんだ。なのに、このざまはなんだ。

 仕事以外の時間をなるべくと机にかじりついてはいるけれど、多くのひとがいう基礎の練習になんか見向きもせずに、やれ"自分のほんとうの声"とやらに執心して、だれにもわかってもらえない絵を描いているじゃないか。その結果が数字だ。そしてその数字は、いまに次のイベントの本の売り上げとして顕れるぞ。目の前で本を手に取る人の、表情、しぐさ、言葉によっていまに知れるぞ。そのときになっておまえは焦るんだ。"自分の好きなもの、自分のできること、と、なんて矮小な枠で、創作だなんて語っていたのだろう"と。

 だからはやくしろ。評価されなければ生きていけない。好きでなければおまえの理にはかなわない。ならば、どちらも得られるように、もっと視野をひろげてやるべきことを掴め」

 

 なるほど彼の言うことは道理だ、と思う一方、一点だけ気になるのは、どうにもその「もっと視野をひろげて」というところがあまりに茫漠としていることだった。

 

 評価とか数字とか、これらは間違いなく結果として評価されるところだ。

 というより、真の意味で、自分以外の他人からすれば、これら以外におれを測る指標はない。

 その事実はただつまらないけれど、だからこそ理解した「気になる」のが面白いのだろう。と、おれはよく思っている。

 

 「共感」を煽ることによって、そこに根付くユーザーをより永く定着させるのはSNSソーシャルメディアだが、これが現代の人間において本当に必要なことかは怪しい。

 たとえば共感ができない、言語が通じない相手であったとしても、われわれは金銭のやり取りで食事をとることができる。常識がなくともきまりが守れたら衣食住は得られるし、きまりが守れなければそこから追い出されてしまうかもしれないが、しかし追い出されるだけだし、少なくともここ日本社会では底辺の底辺が野垂れ死ぬことはそこそこの税金を使って防止・保護される傾向にある。

 

 「共感」は生きるために必要ではない。それは古代、コミュニティから炙れると食事にありつけなかった、道具を使うことさえままならない、よわい野生動物だったころの人間の話だ。生きるだけなら、明日にありつくだけなら、「共感」なぞに頼らなくともそれなりの手段はある。

 むろん、「共感」が得意で、それに頼ることで食い扶持を得られるひとも存在するだろう。しかしおおくのひとにとって、そんなことはないはずである。物事ひとつを報告することでさえ、感情ひとつを伝えることでさえ、人間は間違いを犯し、誤解を生み、大小なりの争いをはじめてしまうのだから。

 

 現代において「共感」はひとを殺す。かつて古代、明日に行き着くために必要だった「共感」は、感情もなく、事実として、平気でひとを殺す。

 共感を得られないから苦しみ、共感を得ようと躍起になって、しかしいつまでも得られないことを相手にぶつける。あるいは共感を得られない自己には価値がないと自分を追い詰め、殻に篭り、どこにも行けなくなることでさえある。

 誉め言葉を求め、点数を求め、評価を求め、地位を求め、肩書を求め、役職を求め、とにかく、とにかくと自分の外側からの何かで武装することを求める。

 

 おれはそれにはまっていたんだと思う。これは執着の類だ。共感は、人間に深く刻まれた間違いであり、エラーであり、業だ。

 

 どうしてこう思うかというと、いろいろ生きてきたうえでの経緯があるのだけれど、ひとつ卑近な例を挙げるとすれば、おれはつい今日にこういうツイートを見た。

 「みんな辛いんだよ、当たり前のことだよ、なんていうやつは、布団の中に一日中もぐって、じぶんを生んでくれた両親に"ごめんなさい、ごめんなさい"と嗚咽し続けたことさえないんだろう。」

 

 それは間違いなくそうだろうなと思うし、この人はいわゆる精神疾患や人に理解されないことによる苦しみを味わっている人だとおもうから、この人に対しておれが意見することはできないし、どうか望む形で生き続けてほしいと無責任にいのることしかできない。

 そう、本当にそれしかできない。「共感」なんてできないし、「寄り添う」なんてできない。せいぜいこの人が身近にいるひとならば、美味い飯に連れて行ったり、カラオケに行ったり、夜中に作業通話をしたり、もっと身近なら眠くなるまで一緒に話し続けるくらいしかできないだろう。どうやったっておれは、この人を「理解る」ことなんてできない。「理解った気になるだけ」だ。

 

 おれだって似たようなことがあったし、それを何度かひとに語ってきたけれど、なんかこう、「わかってもらえた」という気分にはまったくならなかった。

 「へえ」とか、「そうなんだ」とか、言葉に詰まった感じになったり、あるいは必死に受け取ろうと、自分のことばに置き換えてくれるんだけれど、その言葉はおれが「そのとおりだ!!」という反応をするに至るまで変換されることのないまま、どこか宙を舞って、また次の関係のない話題がはじまる。

 

 分かり合うことなんてできない。

 おれが長々と書いているこの文章かって、おれが仕事の場や、あるいは飲みの場や、だれかを励まそうとしてとか、そうやって何かを伝えようとしても、「何か」しか伝わらないし、具体的なものは何も伝わらない。

 「共感」に具体性を求めた途端、おれはおわりのない迷宮に放り込まれて挫折する。

 そうして最後にこう思う。「ほんとうにどうでもいいことに身をやつしていたな」、とか。

 

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 たぶん人間は、あるいはおれ個人だけかもしれないが、いや、その違いはどうでもいい。それを証明する手立ては、おれの持つのこりの寿命では存在しない。後世のひとが再現しているところを、おれが生きている間におれが観測できないから。

 でも元来そうじゃないか?自分と戦って、自分で歩んで、自分で学んだことでしか、自分でつくった言葉でしか、自分でえた自分だけにわかる理解でしか、おれたちは前に進めないんじゃないか。

 いくら人のことばを頭に放り込んだって、それが自分の持つ身長・体重・年齢・性格・経歴・スキル・収入・住居・栄養・人間関係・そこから生じる強迫的な考え方……において適応できると考えるほうが圧倒的に在り得ない話じゃないか。

 だからといって「人の話を聞くな」というわけでは、ない。

 

 おれがいいたいのは、「ひとにわかってもらおうと時間を浪費して、自分と戦って自分だけが得られる理解という豊穣を得る機会を失い続けるのはもうやめろ。おまえにとって価値あるものは、おまえにしか知覚できないし、おまえしか探求できないし、おまえの持つ時間を使うことでしか得られないんだぞ」ということだ。

 

 それをおれは、おれ自身にずっと伝えたくて、あるいは何かしたいと思っているのに、同じような「どうすれば分かってもらえるか」「どうすれば評価されるか」を深慮して、自分との時間、自分だけが積み重ねられるもの、ひいては自分自身の成長の機会を失い続けるひとに対して、いい加減にしろと言いたくて、ずっと、ずっと絵や音楽や詞を書いているのだと思う。

 

 ええい、もう嫌われてもいい。それがずっと言いたかったことだ。

 

 ひとの言葉を見るのもいい。ひとの絵と比べてじぶんの絵が何が劣っているのか、優れているのか、それを知ることで新しいものを得ようとするのはいい。だけど、そこで得たものを、自分を分かってもらうために人にぶつけてはだめだ。

 だってどこまで行っても、おまえが理解した自分を理解できるひとは現れないし、おまえの言動や思考をすべて分かってくれるひとなんて一人だっていないのだから。おまえに今何が必要で、おまえが今なにがしたくて、おまえがどっちに行くべきかというのを最後にきめるのはおまえだ。それを、評価や数字という共感にもとめてはならない。その結果は操れないのに、おまえを操ろうとしてくるだけだ。"そいつら"はおまえのことを考えているかもしれないが、おまえのいちばんやわらかいところが何かという致命的で重大なことに気付いていない。悪意はなくとも、他意はなくとも、匿名や大衆や他人は、自分以外の人間は、いともたやすく自分を傷つけてくるし、足を引っ張ってくる。

 そうでないひともある時期においてはいるだろう。そういう人と付き合って、おまえを高めていけばいい。こういうことをしたい、ということに対して、こういう方向ならどうだろう、と具体的なことを示してくれるような人をたよりにして、おまえがおまえの往きたい先を選べばいい。

 というか、それ以外に何があるんだ。本来自分がやるべき「自分を理解する」「自分のやりたいことをわかってやる」ということを、どうしてその声の聞こえない他人に委ねられる。おまえが誰かより優れているとか劣っているとかは関係がない。おまえは何ができて、何がしたくて、何をすると決めて動くんだ。答えはそこにしかないじゃないか。「やりたい」と思っているのなら、その祈る両手と佇む両足が余っているのなら、後退を交えながらでも一歩を進んでみろ。だって、そうじゃないと、日々や他人に責任をもとめるばかりで、あるいは何もできない自分をのろうばかりで、終わってしまうじゃないか。

 

 

 人のことは大切だけれど、人に自分の大切なものを明け渡すわけにはいかないし、そこにおいてひとの理解を得ようとして足掻いていた自分を塗り潰す勢いでやる。だって、おれだって叶えたいこととかあるし、足踏みばっかで怖くて進めなくて失ったことがやまほどあるから、これ以上どこかへ行くための時間を失わないために、おれはおれの足で一分でも一秒でもながく進もうとおもうよ。

 

 理解を得ようとするんじゃなくて、おれ自身の納得を得たいんだ。たとえ生きる上で間に理解を得ることが必要だとしても、最後に落ちるのはおれの中なんだ。だから、おれはおれと戦って、おれの今描ける最大のものを描く。それでいいんだ。