99%の用意と1%のパッション

 おれはいわゆる創作活動を、芸術の末端を汚しながらもそこに根ざして実行していると自負していて、俗に言う二次元イラストの製作とか、それらをまとめた本の製作とか、あとは音楽が好きで、既存の楽曲のMVから構図のアイデアを得たりとか、それらとはまったく方向性が違うけど歌詞の和訳・英訳やMVの考察をしている。

 インターネットに作品を投稿し始めたのは12歳になる前の小学6年生、今は社会人3年目の23歳なのだから、実に11年間は目に見える形で創作活動を行っていることになる。ただし実体としては、イラストを中心としていた期間はおよそ4~5年ほどで、他は音楽活動じみたことをしていたりとか、それら両方ともみっちりやり始めたのはものの数年前だったりとか、とかく真面目にやっているようでやっていない、のんべんだらりな平行線をぐずぐずと続けてきた感は否めない。

 しかしひとつ言えることとして、おれには伝えたいことが常にあったように思う。

 

 絵を描いていると、脳内で思ったことや理想とするシチュエーション、構図、表現したい内容とは相違したアウトプットが常に生成される。人によっては違うかもしれないが、少なくともおれは「この絵は100%満足に描けた」ということがない。いつも不完全燃焼で、いつも何か足りないと思っていて、いつも目の前の作品よりも遠くを見ていた。もちろん褒められれば喜ぶこともあったが、最近はこれは「喜び」ではなく、自己の評価と周囲の評価の乖離による「動揺」かもしれないとすら思っている。ともあれ、おれには自他共に認める「今思っていることを100%出し切った」という経験はない。

 そしてこれは、絵に対してのみではないと考えている。

 おれは自己評価としてコミュニケーションが得意な方ではなくて、とくに誰かに気持ちや言葉を伝えるとき、いつも反省会を開くことになる。

 真意はちゃんと伝わっているか。おれは真意を形にすることができたか。齟齬や瑕疵の可能性を最小限に抑えることができたか。あの瞬間、もっと伝わる言い方や間の取り方があったのではないか。

 コミュニケーションに対して開く反省会はいつもネガティブなので、おれは反省を繰り返す度に改善ではなく忌避を覚えてしまって、人と話すことは苦手なままなのだが。

 

 今の仕事の内容がプロジェクト設計業務であることも関連してか、近年のおれはとにかく、自分の思う内容、伝えたい内容を言語化するよう意識してきた。

 もともと話すのが得意ではなかったから、話す前にはメモ帳に箇条書きで伝える要綱とその理由、要すればエビデンスの所在や質疑応答一覧も作成してから挑んだ。

 その成果は一応現れたように思えて、いくつか方針を伝え思うように進められる場面も増えてきた。おれはその時、苦手なコミュニケーションを克服したのかもしれない、と半ば安堵した。

 

 だけど実態は違っていて、おれは必殺技を覚えてたての子供のように同じ方法に溺れていただけで汎用性がなかった。何より問題だったのは、言語化、具体化を過信し、言語にまとめられない情報を無理にまとめようとして、考えるべきでないことで足が止まってしまったことにある。

 おれは前述のとおり歌詞の和訳活動もしているのだけど、最近記事の文字数がとにかく増えてきた。以前は元の歌詞+自作の和訳と同等程度の文字数で曲の所感をまとめていたが、最近は記事全体で10000字を毎回越える。しかも、それらの膨大な文字の記事群は、自分で読み返しても非常に読みづらく、もっと簡潔にまとめたらいいのに、何を気にして書いているんだ、とかの感想を抱くものとなっている。

 要するに、自分のまとめた内容や言葉が、単純に嫌いになってしまった。おかげさまでここ2週間ほど執筆が進んでいない。次の記事の和訳はもうできているが、既に没にした文字数を含めると30000字を越えている。「このままだと、読み返そうと思わない記事が量産されてしまう」。そういう類の気持ち悪さに足を引っ張られている。

 

 おれは来月に同人誌の2冊目の発行を控えているのだけど、自身の同人誌では、自作の詩をイラストと紐づける形で封入している。

 その詩には前提となる設定があるが、そこの説明は一切行わないし、読んだ側に想像を任せている。唐突で意味が分からなさすぎると読むのを嫌う読者が出るかもとは思うが、それはそれで構わないと思っている。なにせ、おれがそれらの詩を見返すとき、なにを考えていたのか、おれにははっきりとわかる文章になっているからだ。ここが、今書こうとして書けない記事たちとは明確にちがう。

 言いたいことがおれには分かる。その言葉をどうすれば他の人に伝わるのかは分からないけれど、おれは過去の自分が読んだ詩を見た時、また過去の自分が描いた絵を見た時、おれだけはおれを理解できるという錯覚に浸ることができる。それが、過去の自分の言いたいことが成仏するような、あのとき言いたかったことは未来の自分というひとりに届いたのだと実感し、創作をしてよかったと思える。

 願わくば自分以外の他人にも届けばと思って、販売する本にも入れているが、それは副次的な効果にすぎない。おれは少なくとも、おれに伝わる言葉であってほしいと願っている。

 

 伝えると言うことは、あったことや前提条件を、仔細に、事細かに、正確に、寸分の違いもなく記載するということとは違うのだと最近は実感している。

 それよりも感覚的で感情的なものを乗せて、何かこう切羽詰まったような、相手が読みたいと思わせるような鬼気迫る強情さを持ってこそ、言葉ではなく、伝えたい内容が曖昧も具体も孕んで一緒に伝わるのだと思う。

 それに、元来100%完全に伝わると言うことはない。伝達はミスがある。会話には齟齬がある。それが、synとsynackを繰り返すTCP/IP通信とは異なる点だと思う。人間は、人間の伝達は、完全ではない。

 

 創作も、言葉も、100%思う通り出力できるわけではない。そして100%損失なく相手に伝わるわけではない。完璧に満足の出来る絵は描けない。完全に事実を損失しない言葉を伝えることはできない。

 だけどごく感覚的に、情熱として、その不完全さが面白いと感じる自分と、その不完全さの穴を埋めるために熱意を込めたいと思える自分がいる。

 

 おれは19歳のとき、学園祭でライブをやったことがあって、その時ほんの60秒足らずのMCをやったことがある。あのときに、早口ながらも、本当に心から思っていた感謝を、メンバーと、観客の前で言えたあの瞬間を未だに覚えている。

 持てる限りの整理をしたなら、あとは結局はパッションで、とかくおれたちは、気持ちの乗ることを続けないといけないのだと思った。

 それは人にものを伝えることでも、創作をすることでも、単に作業をするときでも、ある程度は同じなのだとおもう。