歯を食いしばることが目的じゃない

 いま自分は日曜日のイベントに向け移動中で、新幹線の自由席に座ろうとして、出発時刻の30分前にホームに着いている。おれは元来遅刻症で、学生時代もそうだったし、社会人としてもいつも人に迷惑をかけているので、こんなことはかなり珍しい。通常遅刻するときは、あと一分!あと一秒、机にしがみついて作業をしたい、という面持ちなのだけれど、たぶん今回は、前日まで家に篭って次の制作のために煮詰めていたのが災いして、ギリギリまで作業しなくてはならないという強迫が薄れてしまったのだと思う。要するに少なからず疲れている。
 乗車の列の一番前でただ突っ立っているのも癪なので、こうして記事を書くことにしている。

 煮詰めるといえば、おれはこの頃、生活のための本業をしている以外はほぼすべて創作のための時間に割いている。これはもう、やらなければ気持ち悪いという習慣とか、締切を決めた以上やらねばという強迫とか、明日世界が滅んだとしても後悔しない今日をという錆びた鉄のような念慮とか、そういう「止まれない」に基づいている。「王とは絶対に立ち止まってはならないものだ」とはFF15のレギス陛下が、我が子であり物語の主人公であるノクティス王子に贈る言葉なのだけれど、まさしく自分もそういった気持ちをトレースするかのように、今日を、明日を生きている。いや、当然ながらおれは王じゃないし、世界を救うこともなければ、どちらかというとノクティスの側近であるグラディオラスのほうが年が近いのだけれど。

 ただ、おれが最近気を付けていることは、このような強迫のみでは、きっと為したいことをほとんど為せないだろうと思っていることだ。おれは自分を典型的な「いい子ちゃん」だと思っていて、たとえば学校のテストで点数を取って評価されるとか、仕事仲間の苦労を汲んで仕事を取りすぎて上に怒られるとか、とにかく「合理」ではなく、「感情」でものごとに取り組む節がある。このような努力は、あるとき非本質な本音として、あるいは積み上げた労力に見合わぬ成果という形で自分に返ってくる。「こんなに頑張ったのに、だれも、自分でさえも、自分を認めてくれない」。

 さきほどおれの母親から借りた本を読んでいたのだけれど、それはある種の哲学的観点から1300年前の日本史を解きほぐす歴史書で、その本のまえがきに書いていたことばを読んで身を灼かれるおもいがした。
 いわく、真理とは、それより以前に提唱されていた説・常識を、より多くの物事を簡潔かつ合理的に説明することがらを指すとの意見であった。たとえば現代において地動説が信じられているのは、地動説が100%ただしい真理だからではなく、①既存の説である天動説よりも、おおくの事柄を理論的に説明しうる、②地動説よりもおおくの事柄を理論的に説明しうる説が現時点で出現していない からだそうだ。言い方を替えれば、地動説は真理ではないが、天動説よりかは理論的であり、より真実に近づいているのだ、ということだ。
 これの何に身を灼かれるおもいをしたのかというと、おれはかつて、「努力」ということばを笠に着て、合理的でない時間の溶かし方と歯の食いしばり方をして、7年もの時間を無に帰したことがある。具体的にいうと、おれは中学から7年間、部活で剣道をつづけていた。これが箸にも棒にもかからなかった。試合では部内・部外とわず勝てず、段位はたったのひとつしか取れず、次の段にいどむも三度の不合格を通してあきらめた。ふつう二段で三回も落ちない。ならば部活をサボっていたのかというと、そうでもないとは言い切れないが、ほとんどの期間において、サボる同級生を尻目に毎日通い詰めていた。実家の屋外で竹刀を振る時期もあったし、年に数回おこなう走り込みはぶっ倒れるまで走って部内で一番速かった。でもおれは全然うまくならなかった。愚痴を零しながら取り組んでいる部員のほうが、おれよりよっぽどうまくて敵わなかった。
 なぜおれが勝てなかったのか。過去のおれにはつらいことを言うようだけれど、それは、試合で勝つためとか、体の使い方がうまくなるためとか、太刀筋や姿勢に美学を見出していたとかで剣道をしていたのではなく、ただ「つらい練習に意味を見出すため」「明日が嫌にならないため」「部活で培った人間関係を無駄にしないため」といったことが目的の本筋であったからだとおもう。それにおれは途中から、音楽や絵をやりたいと頭の中でおもいながらも前述の強迫にしばられ練習を続けていたのだから、ますます目的は「うまくなる」ではなく「仮初の意義を見出す」ことになる。これでは、才能があるとか、勝ちの経験があるとかに依存して上手くなる以外に上達の道はない。こんな付け焼き刃でその日暮らしの思考では、勝つことはできない。

 当時はそれでもいいと思っていた。なぜなら剣道はおれがいちばんやりたいことではないし、いちばんやりたいことで成果を出せるなら剣道は続ければめっけもんというモチベーションだった。
 しかしいまおれは、創作という、長年先送りにしてきた「一番やりたいこと」に直面している。ここで評価を得られなければ、ある意味アイデンティティがない。「一番やりたいことに全力で成果を出す」といった免罪符で生きてきたおれには、食うことも刺すことも遺すことも叶わない創作に自分の作品が落ちていくことが許せない。そのためには学習や作業をルーチン化させてきたし、モチベーションなんて甘えたことばに依存しないようにしてきたし、ゲームやともだちとの遊びや、目的外かつ時間を食うものを排斥してきた。本業の仕事だって満足に取り組めていないし、これを何年も続ければ、おれは役立たずの窓際族に成り下がるだろう。そこまでしなければ、創作に打ち込む自分像を現実の自分に適用することができなかったからだ。

 2、3年の時を経て、ようやくそのような「日がな創作を考えて、日がな創作をしている」といった自分を作り上げることができた。しかしいまおれの頭を埋めるのは、かつて非合理な努力で溶かした7年間が、今度は一番大切な創作で再発するのではないか、といった途轍もない恐怖だ。何年かけても、おれは創作をなにも自分のものにできないまま、おれの伝えることはひとつも伝わらないまま、この今生を終えてしまうのではないか。これだけの楽しみを、これだけの機会を、これだけの本業に関連する人々を犠牲にしながら、おれはなにも為せないのではないか。

 だからいま、「真理とは、以前の説よりもおおくの事象を説明しうるものである」といった言説に身を灼かれるおもいがするのだ。おれが惰性でつづけ、夢中になるだけの「努力」の時間は、この真理の探求が目的ではない。そんな自分像は、努力は必ず報われるとか、徹夜とかが美学であるという常識に塗りつぶされた誤謬にすぎない。おれは、そんなものの相手をしてはならないのだ。
 一番やりたい創作において成果を出したいのなら、努力という常識を疑い、以前の自分が持っていた方法や説を、より理想にちかい形へと置換する、すなわち発見と破壊を繰り返すほかない。これは、努力に彩られた自分の方法を後生大事に、執着を孕みながら抱えては成し得ないことである。じぶんが長年積み上げたことを手放したくないが故に、目を曇らせ、視界を狭めていては、発見も破壊も生まれない。おれは、いまいちど、じぶんが作り上げた「四六時中創作に取り組む自分像」に向き合い、よりよい方法を発見し、破壊しなければならない。目指すものがあるならば、好きなものを為したいなら、何千時間と積み上げて手に入れた武器を、理想のための一瞬の判断で捨てる、蛮勇にも無謀にも近い勇気の情念が必要だと、それなりに本気でおもう。

 だから、今の自分に贈る言葉は、「歯を食いしばる美徳に溺れるな」だ。

あと一歩の踏ん張りが最後の成否を決める

 どうにも筆が進まないとか、考えるつもりが悩んでいて気が散ってしまうとか、時計の針ばかりを見つめて一日が長いと思ってしまうとか、かと思えば振り返って半月が何をしたのだ?とばかりに過ぎ去ってしまったりとか、とにかく、おれは、少なくともおれには、それなりに時間をかけているはずなのに注力できない/集中できないといったことが度々起きる。不思議なことに、時計の秒針を意識しないで、モニターに映る残り時間を意識しないで作業ができた月ほど、その中身がずっと充実していたような感触になる。それが今月、21年3月、17日時点でこのひと月に対して感じられないということは、おれはきっと今集中できていない。

 

 人間の頭は一日に決断できる数が限られているらしい。決断というのは頭のリソースを最も使う行為であり、ぴしゃりと一言で意思決定をするだけで胡坐をかいているように見えるえらい人は、実は高度な知能労働を行っているということだ。これは絵とかの創作にもいえることで、べらぼうに線の数を増やすよりも、いたずらに時間をかけて文字数や音数を稼ぐよりも、そのひとつひとつ、一本一本に注力して描いたものが積層した絵というのは知らず美しさを放つ。線を引くのは肉体労働ではない、知能労働だ。おれは腕で描いているのではなく、目と頭で描いている。神絵師の腕を食ったってHPが増えるだけで、技を覚えていなかったり、限られたコマンドゲージで的確に技を選ぶ技術がなければ、なにひとつ善いものなど描けない。それは、おれは頭で描いているのだという意識は、常に忘れてはならない。

 

 また、人間が集中状態に入るには数分だか数十分だかの時間を要するらしい。だから、たとえばオフィスにいて別の仕事がすぐ割り込んでくる状況とか、張り詰めた会議中に電話が鳴ったりとかいうのは、想像以上に集中をかき乱す。そして集中の状態に入るまでにおおくの時間をもう一度費やし、そして割り込みが入ればまたその状態はリセットされる。おれたちが頭でものごとを描いているという意識を大事にするならば、とにかく集中できる場所づくりをしなければならない。割り込んでくるものを取り払わなければならない。孤独とか、承認とか、怠惰とかはもちろん、それらを誘発する通知とか、電話とか、人を。いつまでも断ち続けろというわけではなく、それに取り組む時にはある程度、その物事以外のすべてを断ち切る時間を作る必要がある。より善いものを作りたいのなら、悩むだけで空虚な時間を浪費したり、あるいは割り込みによって時間の量の重みだけを感じ、密度を忘れ、半月を無為に過ごすくらいなら。

 

 むつかしいのは、ものごとが上達するためにはある程度既存のものごとを喰わなければならないということだ。絵を描くなら自分が目指す上手い人の絵をまじまじとみつめ、その本質を見極めようと取り組まなければならないし、動画をつくるなら人々に愛される動画とは何かをたくさん吸収しなければならないだろう。だが、たくさん吸収するということは、たくさんの誘惑に勝たなければならないということでもある。インプットと称し、思考のない寄り道をしてしまうことがある。寄り道のすべてが悪というわけではないが、後から振り返って、何の時間だったんだ、と意識してしまう時間というのは、確実に存在する。それは人に愛されないわるい作品を見てしまったとか、そういうことではない。自分にとって吸収できないとか、今必要ではないものを惰性で眺める時間を過ごしてしまったとか、そういう自分の選択の過ちが起因のものである。そのような気持ちになってしまうような選択と吸収をなるべく排斥して、何がしたいのか、何が欲しいのか、何が必要なのかを常に考えて、正座するような面持ちで、遥か高みにあるものごとへと向き合わなければならない。とか、おれは思っている。

 

 最後に、単純に作業をしているとき、少し休憩したいとか思ってSNSを漁ったり、一曲だけだからと音楽を探すために作業の手を止めてしまうことがある。ここまでがんばったんだから、ここまでできればいいだろう、とか、適当な理由をつけて自分の気持ちを納得させて、作業と関係のない、集中を切らすような要因へと手をのばす。おれは、この行為が嫌いだ。本当に資料を探さなければならないときは、おれはタイムラインのロード中に検索マークを連打して一切タイムラインを見ないようにするし、動画だって狙いを決めているときは関連動画に目もくれず、即座に選択してフルスクリーン表示にして、即作業に戻る。集中を切らしてくる広告表示が嫌いという理由でyoutubeプレミアムに入っている。とにかく、ぜったいに集中を切らしてはいけないという気持ちがおれの中のどこかには巣食っている。だのに、時々それを、そんなに大切なことを、しかも半月やひと月といった長期間忘れてしまうことがある。こういうとき、おれは自分が許せなくなる。「明日世界が滅んでも後悔のないように」とはおれの学生時代を決定づけた台詞なのだけれど、この志をわすれて、しがみつきもせず、意図も意思も半端に中空をただよっていた半端なおれが存在していたことに辟易する。

 

 だから、集中を切らす要因として存在する「ここまでがんばったんだから」という声を、「まだだ、あと一歩、あと一線、あと一塗り」と、踏みとどまるおもいで抑圧するその声が、その声の根拠となる、おれを形作ったかずかずの出来事や作品たちを、ぜったいに忘れないように、こういう文章を残しておきたいとか思った。

 

 そもそも「ここまでがんばった」って、おまえの主観にすぎなくて、おまえが行きたいところは、おまえがやりたいことは、そんな主観だけの慰めによって達成されるのか?とか思う。新刊の作業も終わった。大学にもこれから入れる。だけど、それはおまえが為したいことの果たしてスタートでさえないんじゃないか?ということを、常に自分に投げかけて、最後の踏ん張りを、毎日、毎秒、存続させていきたいとおもう。

自分で決めたことを見ているのは自分だけだ

 ここ一週間ほど、特に絵を描いたり、仕事(生活のための仕事であり、絵とは関係がない)をしている最中に、いいようのない不安に見舞われることが多々ある。

 ちょうど金曜日までは、次のイベントのための新刊製作作業を、俗に言う締め切りに追われながらやっていたものだから、まあ妙な緊張感、失敗したらどうしようという想いでピリピリしているのだろうな、とか、適当に自分の内情をあしらっていた。ところがそれをまたいで昨日、今日と、原稿からまったく解放された別の絵を描いていても、また次の絵の構想のためにアプリのメモを広げても、どうも気持ちがすっきりしない。

 

 そこでよくよく自分の声に耳を傾けてみると、「この作品が、自分の行動が、何にもつながらなくて、評価されなかったらどうしよう」といったことを考えている。そういう心境に至るのは割といつものことだし、そんなくだらないことはとうに振り切ったものだと思っていたから、またくだらないことを、と一蹴する。しかしやはり重い気分はぬぐえない。

 より仔細に聴いてみる。「評価を一蹴して生きていけるのは、生活の基盤が絵の製作とは別のところにあるときだけだ。おまえは今はそうだけれど、近い将来創作を軸にして生活して、好きなものも平行して作るだなんて、大層なうわごとを何年も言っているじゃないか。ならば、評価を無視していきることはできない。そして、好きなことを無視することも性としてできない。おまえは強くならなくてはならないんだ。なのに、このざまはなんだ。

 仕事以外の時間をなるべくと机にかじりついてはいるけれど、多くのひとがいう基礎の練習になんか見向きもせずに、やれ"自分のほんとうの声"とやらに執心して、だれにもわかってもらえない絵を描いているじゃないか。その結果が数字だ。そしてその数字は、いまに次のイベントの本の売り上げとして顕れるぞ。目の前で本を手に取る人の、表情、しぐさ、言葉によっていまに知れるぞ。そのときになっておまえは焦るんだ。"自分の好きなもの、自分のできること、と、なんて矮小な枠で、創作だなんて語っていたのだろう"と。

 だからはやくしろ。評価されなければ生きていけない。好きでなければおまえの理にはかなわない。ならば、どちらも得られるように、もっと視野をひろげてやるべきことを掴め」

 

 なるほど彼の言うことは道理だ、と思う一方、一点だけ気になるのは、どうにもその「もっと視野をひろげて」というところがあまりに茫漠としていることだった。

 

 評価とか数字とか、これらは間違いなく結果として評価されるところだ。

 というより、真の意味で、自分以外の他人からすれば、これら以外におれを測る指標はない。

 その事実はただつまらないけれど、だからこそ理解した「気になる」のが面白いのだろう。と、おれはよく思っている。

 

 「共感」を煽ることによって、そこに根付くユーザーをより永く定着させるのはSNSソーシャルメディアだが、これが現代の人間において本当に必要なことかは怪しい。

 たとえば共感ができない、言語が通じない相手であったとしても、われわれは金銭のやり取りで食事をとることができる。常識がなくともきまりが守れたら衣食住は得られるし、きまりが守れなければそこから追い出されてしまうかもしれないが、しかし追い出されるだけだし、少なくともここ日本社会では底辺の底辺が野垂れ死ぬことはそこそこの税金を使って防止・保護される傾向にある。

 

 「共感」は生きるために必要ではない。それは古代、コミュニティから炙れると食事にありつけなかった、道具を使うことさえままならない、よわい野生動物だったころの人間の話だ。生きるだけなら、明日にありつくだけなら、「共感」なぞに頼らなくともそれなりの手段はある。

 むろん、「共感」が得意で、それに頼ることで食い扶持を得られるひとも存在するだろう。しかしおおくのひとにとって、そんなことはないはずである。物事ひとつを報告することでさえ、感情ひとつを伝えることでさえ、人間は間違いを犯し、誤解を生み、大小なりの争いをはじめてしまうのだから。

 

 現代において「共感」はひとを殺す。かつて古代、明日に行き着くために必要だった「共感」は、感情もなく、事実として、平気でひとを殺す。

 共感を得られないから苦しみ、共感を得ようと躍起になって、しかしいつまでも得られないことを相手にぶつける。あるいは共感を得られない自己には価値がないと自分を追い詰め、殻に篭り、どこにも行けなくなることでさえある。

 誉め言葉を求め、点数を求め、評価を求め、地位を求め、肩書を求め、役職を求め、とにかく、とにかくと自分の外側からの何かで武装することを求める。

 

 おれはそれにはまっていたんだと思う。これは執着の類だ。共感は、人間に深く刻まれた間違いであり、エラーであり、業だ。

 

 どうしてこう思うかというと、いろいろ生きてきたうえでの経緯があるのだけれど、ひとつ卑近な例を挙げるとすれば、おれはつい今日にこういうツイートを見た。

 「みんな辛いんだよ、当たり前のことだよ、なんていうやつは、布団の中に一日中もぐって、じぶんを生んでくれた両親に"ごめんなさい、ごめんなさい"と嗚咽し続けたことさえないんだろう。」

 

 それは間違いなくそうだろうなと思うし、この人はいわゆる精神疾患や人に理解されないことによる苦しみを味わっている人だとおもうから、この人に対しておれが意見することはできないし、どうか望む形で生き続けてほしいと無責任にいのることしかできない。

 そう、本当にそれしかできない。「共感」なんてできないし、「寄り添う」なんてできない。せいぜいこの人が身近にいるひとならば、美味い飯に連れて行ったり、カラオケに行ったり、夜中に作業通話をしたり、もっと身近なら眠くなるまで一緒に話し続けるくらいしかできないだろう。どうやったっておれは、この人を「理解る」ことなんてできない。「理解った気になるだけ」だ。

 

 おれだって似たようなことがあったし、それを何度かひとに語ってきたけれど、なんかこう、「わかってもらえた」という気分にはまったくならなかった。

 「へえ」とか、「そうなんだ」とか、言葉に詰まった感じになったり、あるいは必死に受け取ろうと、自分のことばに置き換えてくれるんだけれど、その言葉はおれが「そのとおりだ!!」という反応をするに至るまで変換されることのないまま、どこか宙を舞って、また次の関係のない話題がはじまる。

 

 分かり合うことなんてできない。

 おれが長々と書いているこの文章かって、おれが仕事の場や、あるいは飲みの場や、だれかを励まそうとしてとか、そうやって何かを伝えようとしても、「何か」しか伝わらないし、具体的なものは何も伝わらない。

 「共感」に具体性を求めた途端、おれはおわりのない迷宮に放り込まれて挫折する。

 そうして最後にこう思う。「ほんとうにどうでもいいことに身をやつしていたな」、とか。

 

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 たぶん人間は、あるいはおれ個人だけかもしれないが、いや、その違いはどうでもいい。それを証明する手立ては、おれの持つのこりの寿命では存在しない。後世のひとが再現しているところを、おれが生きている間におれが観測できないから。

 でも元来そうじゃないか?自分と戦って、自分で歩んで、自分で学んだことでしか、自分でつくった言葉でしか、自分でえた自分だけにわかる理解でしか、おれたちは前に進めないんじゃないか。

 いくら人のことばを頭に放り込んだって、それが自分の持つ身長・体重・年齢・性格・経歴・スキル・収入・住居・栄養・人間関係・そこから生じる強迫的な考え方……において適応できると考えるほうが圧倒的に在り得ない話じゃないか。

 だからといって「人の話を聞くな」というわけでは、ない。

 

 おれがいいたいのは、「ひとにわかってもらおうと時間を浪費して、自分と戦って自分だけが得られる理解という豊穣を得る機会を失い続けるのはもうやめろ。おまえにとって価値あるものは、おまえにしか知覚できないし、おまえしか探求できないし、おまえの持つ時間を使うことでしか得られないんだぞ」ということだ。

 

 それをおれは、おれ自身にずっと伝えたくて、あるいは何かしたいと思っているのに、同じような「どうすれば分かってもらえるか」「どうすれば評価されるか」を深慮して、自分との時間、自分だけが積み重ねられるもの、ひいては自分自身の成長の機会を失い続けるひとに対して、いい加減にしろと言いたくて、ずっと、ずっと絵や音楽や詞を書いているのだと思う。

 

 ええい、もう嫌われてもいい。それがずっと言いたかったことだ。

 

 ひとの言葉を見るのもいい。ひとの絵と比べてじぶんの絵が何が劣っているのか、優れているのか、それを知ることで新しいものを得ようとするのはいい。だけど、そこで得たものを、自分を分かってもらうために人にぶつけてはだめだ。

 だってどこまで行っても、おまえが理解した自分を理解できるひとは現れないし、おまえの言動や思考をすべて分かってくれるひとなんて一人だっていないのだから。おまえに今何が必要で、おまえが今なにがしたくて、おまえがどっちに行くべきかというのを最後にきめるのはおまえだ。それを、評価や数字という共感にもとめてはならない。その結果は操れないのに、おまえを操ろうとしてくるだけだ。"そいつら"はおまえのことを考えているかもしれないが、おまえのいちばんやわらかいところが何かという致命的で重大なことに気付いていない。悪意はなくとも、他意はなくとも、匿名や大衆や他人は、自分以外の人間は、いともたやすく自分を傷つけてくるし、足を引っ張ってくる。

 そうでないひともある時期においてはいるだろう。そういう人と付き合って、おまえを高めていけばいい。こういうことをしたい、ということに対して、こういう方向ならどうだろう、と具体的なことを示してくれるような人をたよりにして、おまえがおまえの往きたい先を選べばいい。

 というか、それ以外に何があるんだ。本来自分がやるべき「自分を理解する」「自分のやりたいことをわかってやる」ということを、どうしてその声の聞こえない他人に委ねられる。おまえが誰かより優れているとか劣っているとかは関係がない。おまえは何ができて、何がしたくて、何をすると決めて動くんだ。答えはそこにしかないじゃないか。「やりたい」と思っているのなら、その祈る両手と佇む両足が余っているのなら、後退を交えながらでも一歩を進んでみろ。だって、そうじゃないと、日々や他人に責任をもとめるばかりで、あるいは何もできない自分をのろうばかりで、終わってしまうじゃないか。

 

 

 人のことは大切だけれど、人に自分の大切なものを明け渡すわけにはいかないし、そこにおいてひとの理解を得ようとして足掻いていた自分を塗り潰す勢いでやる。だって、おれだって叶えたいこととかあるし、足踏みばっかで怖くて進めなくて失ったことがやまほどあるから、これ以上どこかへ行くための時間を失わないために、おれはおれの足で一分でも一秒でもながく進もうとおもうよ。

 

 理解を得ようとするんじゃなくて、おれ自身の納得を得たいんだ。たとえ生きる上で間に理解を得ることが必要だとしても、最後に落ちるのはおれの中なんだ。だから、おれはおれと戦って、おれの今描ける最大のものを描く。それでいいんだ。

99%の用意と1%のパッション

 おれはいわゆる創作活動を、芸術の末端を汚しながらもそこに根ざして実行していると自負していて、俗に言う二次元イラストの製作とか、それらをまとめた本の製作とか、あとは音楽が好きで、既存の楽曲のMVから構図のアイデアを得たりとか、それらとはまったく方向性が違うけど歌詞の和訳・英訳やMVの考察をしている。

 インターネットに作品を投稿し始めたのは12歳になる前の小学6年生、今は社会人3年目の23歳なのだから、実に11年間は目に見える形で創作活動を行っていることになる。ただし実体としては、イラストを中心としていた期間はおよそ4~5年ほどで、他は音楽活動じみたことをしていたりとか、それら両方ともみっちりやり始めたのはものの数年前だったりとか、とかく真面目にやっているようでやっていない、のんべんだらりな平行線をぐずぐずと続けてきた感は否めない。

 しかしひとつ言えることとして、おれには伝えたいことが常にあったように思う。

 

 絵を描いていると、脳内で思ったことや理想とするシチュエーション、構図、表現したい内容とは相違したアウトプットが常に生成される。人によっては違うかもしれないが、少なくともおれは「この絵は100%満足に描けた」ということがない。いつも不完全燃焼で、いつも何か足りないと思っていて、いつも目の前の作品よりも遠くを見ていた。もちろん褒められれば喜ぶこともあったが、最近はこれは「喜び」ではなく、自己の評価と周囲の評価の乖離による「動揺」かもしれないとすら思っている。ともあれ、おれには自他共に認める「今思っていることを100%出し切った」という経験はない。

 そしてこれは、絵に対してのみではないと考えている。

 おれは自己評価としてコミュニケーションが得意な方ではなくて、とくに誰かに気持ちや言葉を伝えるとき、いつも反省会を開くことになる。

 真意はちゃんと伝わっているか。おれは真意を形にすることができたか。齟齬や瑕疵の可能性を最小限に抑えることができたか。あの瞬間、もっと伝わる言い方や間の取り方があったのではないか。

 コミュニケーションに対して開く反省会はいつもネガティブなので、おれは反省を繰り返す度に改善ではなく忌避を覚えてしまって、人と話すことは苦手なままなのだが。

 

 今の仕事の内容がプロジェクト設計業務であることも関連してか、近年のおれはとにかく、自分の思う内容、伝えたい内容を言語化するよう意識してきた。

 もともと話すのが得意ではなかったから、話す前にはメモ帳に箇条書きで伝える要綱とその理由、要すればエビデンスの所在や質疑応答一覧も作成してから挑んだ。

 その成果は一応現れたように思えて、いくつか方針を伝え思うように進められる場面も増えてきた。おれはその時、苦手なコミュニケーションを克服したのかもしれない、と半ば安堵した。

 

 だけど実態は違っていて、おれは必殺技を覚えてたての子供のように同じ方法に溺れていただけで汎用性がなかった。何より問題だったのは、言語化、具体化を過信し、言語にまとめられない情報を無理にまとめようとして、考えるべきでないことで足が止まってしまったことにある。

 おれは前述のとおり歌詞の和訳活動もしているのだけど、最近記事の文字数がとにかく増えてきた。以前は元の歌詞+自作の和訳と同等程度の文字数で曲の所感をまとめていたが、最近は記事全体で10000字を毎回越える。しかも、それらの膨大な文字の記事群は、自分で読み返しても非常に読みづらく、もっと簡潔にまとめたらいいのに、何を気にして書いているんだ、とかの感想を抱くものとなっている。

 要するに、自分のまとめた内容や言葉が、単純に嫌いになってしまった。おかげさまでここ2週間ほど執筆が進んでいない。次の記事の和訳はもうできているが、既に没にした文字数を含めると30000字を越えている。「このままだと、読み返そうと思わない記事が量産されてしまう」。そういう類の気持ち悪さに足を引っ張られている。

 

 おれは来月に同人誌の2冊目の発行を控えているのだけど、自身の同人誌では、自作の詩をイラストと紐づける形で封入している。

 その詩には前提となる設定があるが、そこの説明は一切行わないし、読んだ側に想像を任せている。唐突で意味が分からなさすぎると読むのを嫌う読者が出るかもとは思うが、それはそれで構わないと思っている。なにせ、おれがそれらの詩を見返すとき、なにを考えていたのか、おれにははっきりとわかる文章になっているからだ。ここが、今書こうとして書けない記事たちとは明確にちがう。

 言いたいことがおれには分かる。その言葉をどうすれば他の人に伝わるのかは分からないけれど、おれは過去の自分が読んだ詩を見た時、また過去の自分が描いた絵を見た時、おれだけはおれを理解できるという錯覚に浸ることができる。それが、過去の自分の言いたいことが成仏するような、あのとき言いたかったことは未来の自分というひとりに届いたのだと実感し、創作をしてよかったと思える。

 願わくば自分以外の他人にも届けばと思って、販売する本にも入れているが、それは副次的な効果にすぎない。おれは少なくとも、おれに伝わる言葉であってほしいと願っている。

 

 伝えると言うことは、あったことや前提条件を、仔細に、事細かに、正確に、寸分の違いもなく記載するということとは違うのだと最近は実感している。

 それよりも感覚的で感情的なものを乗せて、何かこう切羽詰まったような、相手が読みたいと思わせるような鬼気迫る強情さを持ってこそ、言葉ではなく、伝えたい内容が曖昧も具体も孕んで一緒に伝わるのだと思う。

 それに、元来100%完全に伝わると言うことはない。伝達はミスがある。会話には齟齬がある。それが、synとsynackを繰り返すTCP/IP通信とは異なる点だと思う。人間は、人間の伝達は、完全ではない。

 

 創作も、言葉も、100%思う通り出力できるわけではない。そして100%損失なく相手に伝わるわけではない。完璧に満足の出来る絵は描けない。完全に事実を損失しない言葉を伝えることはできない。

 だけどごく感覚的に、情熱として、その不完全さが面白いと感じる自分と、その不完全さの穴を埋めるために熱意を込めたいと思える自分がいる。

 

 おれは19歳のとき、学園祭でライブをやったことがあって、その時ほんの60秒足らずのMCをやったことがある。あのときに、早口ながらも、本当に心から思っていた感謝を、メンバーと、観客の前で言えたあの瞬間を未だに覚えている。

 持てる限りの整理をしたなら、あとは結局はパッションで、とかくおれたちは、気持ちの乗ることを続けないといけないのだと思った。

 それは人にものを伝えることでも、創作をすることでも、単に作業をするときでも、ある程度は同じなのだとおもう。